「アクターネットワーク理論と社会学研究会」4月28日開催!(ボルタンスキー検討回)
―2019年03月04日

「アクターネットワーク理論と社会学研究会」が2019年4月28日に開催されます。リュック・ボルタンスキーのポスト・ブルデュー社会学について検討が行われます。

ボルタンスキーらの「批判の社会学」(一面的な批判をする社会学ではなく、複数の批判を扱う社会学)は、アクターネットワーク理論の展開に極めて大きな影響を及ぼしています。

主宰者である立石裕二さんからのご案内を以下に転載します。


立石です。いつもお世話になっております。

次回の研究会についてご案内です。

今回は、アクターネットワーク理論とかかわりが深い、現代フランスを代表する社会学者のリュック・ボルタンスキーを取り上げ、ご報告いただくことになりました。

アクターネットワーク理論と社会学研究会
・日時:2019年4月28日(日)13:00~17:00ごろ(※日曜日の開催になります)
・会場:早稲田大学戸山キャンパス39号館 5階 第5会議室
 キャンパスマップ: https://waseda.app.box.com/s/rjr9co01i8y1kuzr0wqnuyjbdx1n3pww
 (※工事が終わり、キャンパスが若干変化しているとのことです)
・協賛:科学・技術と社会の会

1)13:00~15:00ごろ
「二つのプラグマティック社会学:その交差点と分岐点」
話題提供者:小田切 祐詞 氏 (神奈川工科大学)

2)15:00~17:00ごろ
「 「計算の中心(Center of Calculation)」から離れた統計をどうとらえるか
――アクターネットワーク、コンヴァンシオン理論、そして統計の社会学(仮)」
話題提供者:ソン ジュンウ 氏 (コロンビア大学大学院)

小田切さんは、先日ボルタンスキーの『胎児の条件』の翻訳を法政大学出版局から刊行された、ボルタンスキー研究の第一人者です。

ソンさんは、いまは東京大学に滞在して、日本経済統計への国民経済計算の導入に関する博士論文の資料調査中です。博論でボルタンスキー&テヴノーを理論的な枠組みの一つとして参照する予定とのことで、今回ご報告いただけることになりました。

会場は早稲田大学の栗原亘さんにご提供いただきました。
(いつもありがとうございます!)

ご報告の詳細については、近日中にあらためてご連絡させていただきますが、なぜこの研究会でボルタンスキーを取り上げようと思ったのか、簡単に補足させてください。

研究会の複数の参加者の方から、ボルタンスキーを取り上げてみては、というお声をいただいたのが直接的なきっかけですが、それというのも、ボルタンスキーは、ANTに近いアプローチとして、ラトゥールが繰り返し好意的に言及する(数少ない!)同時代の社会学者の一人だからです。たとえば、伊藤さんが翻訳された『社会的なものを組み直す:アクターネットワーク理論入門』では次のように書かれています。

……どんなグループが世界を作り上げているか、どんなエージェンシーがアクターを動かしているのかを、アクターに代わって決めることは、社会学者の仕事ではない。・・・同じことはスケールにも言える。所与の相互作用が「ミクロ」であり、他のものが「中範囲」であったり「マクロ」であったりするのかどうかを決めるのは、社会学者ではないのだ。・・・アクターの代わりになしえないことがひとつあるならば、それはアクターが大小に広がるスケールのどこに位置するのかを決めることである。というのも、ボルタンスキーとテヴノーが示しているように、アクターは、自分のふるまいを正当化しようとするたびに、全人類、フランス、資本主義、理性を唐突に動員するかと思えば、その一分後には、その場でしか通用しない妥協に甘んじたりもするからだ。そうした唐突のスケール転換に出くわした場合に、分析者が唯一取り得る解法は、転換そのものを自分のデータと見なすことである。そして、「絶対的な尺度」が、どんな実際的な手段〔後に見る規格化〕によって流布されているのかを見ることである。(邦訳P355)


非常にざっくりした理解で恐縮ですが、われわれの社会には整然と整理された「構造」や「領域」があるわけではなく、アクターはその時々に「何でもあり」で使えるものを動員しているのであり、そうしたアクターの生成的な振る舞いに注目する点が、ラトゥールとボルタンスキーの共通点なのかな、と思います。

個人的な印象ですが、ボルタンスキーは、『資本主義の新たな精神』における「雇用の流動性」「ネットワーク」や、『胎児の条件』における「中絶」のように、その是非が論争を呼びつつも、決着がつかないままに社会が大きく変動していくような現象を取り上げ、(少なくとも当初は)波紋を生んだそうした変化が、様々な道具立て(言説やモノなど)のもとでどのように正当化された(批判が困難になった)のかを捉えているところが、とても面白いなと思っています。

ボルタンスキーは共同研究者とともに、実際に自らの理論を使って社会現象を分析しており、ANT的なアプローチを実証研究として展開していくには、どういう形がありうるかを考える上でも、とても参考になるのではないかと期待しています。

近日中にご報告の要旨をふくめたご案内を改めてお送りします。
多くの方のご参加をお待ちしております。

よろしくお願いいたします。

関連文献


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国民皆保険の堅持とは―島崎謙治『医療政策を問いなおす』
―2016年07月24日

島崎謙治『医療政策を問いなおす―国民皆保険の将来』書影
2016年7月29日に、第65回東北公衆衛生学会が山形にて開催される(所属講座が事務局となり、村上正泰教授が学会長を務める)。特別講演の講師は政策大学院大学の島崎謙治教授であり、その近著が、『医療政策を問いなおす―国民皆保険の将来』(ちくま新書、2015年)である。医療政策にそれほど詳しくない医療関係者や一般市民を対象に、「国民皆保険の堅持」に焦点を当てて、現在までの医療政策の歴史と医療制度を概説するとともに、将来の医療政策を考える手がかりを与えてくれている。

国民皆保険の堅持=形骸化!?


今日、TPPなどを背景とした医療の市場化、ネオリベラル化への圧力が強まるなか、「国民皆保険制度の堅持」が訴えられている。しかし、本書でまず示唆されるのは、単に国民皆保険の制度を維持するだけでは、実質としての国民皆保険が堅持されるとは限らないことである。

というのも、国民皆保険の成立過程を振り返ると、国民全員が公的医療保険でカバーされるという国民皆保険が達成されたのは1961年である一方、すべての国民が必要に応じて適切な医療を受けられるようになるまで(=「真の意味」での国民皆保険の達成)には、10年の成熟期間を要したからだ。つまり、その間に、給付制限(同一疾病の給付期間上限3年)が撤廃され、給付率が引き上げられ(5割→7割)、高額療養費制度が導入され、医療提供体制が大幅に拡充されたのである。

こうした皆保険を成立させた要件として本書で掲げられているのは、経済成長、連帯意識、政治的リーダーシップ、制度設計・管理者、基礎的行財政の環境であり、今日ではそれらの条件が失われつつある。したがって、「『国民皆保険制度の堅持』という旗は掲げたまま、給付範囲や給付率の縮減、地域医療の崩壊が進み、国民皆保険が形骸化する」危険があるのだ(p.24)。

そこで、国民皆保険を真に堅持するためには、医療提供体制と医療保険制度にさまざまな改革・改善が求められることになる。本書では、そうした改革・改善について、極端な立場から極論を煽り立てることなく、複眼的な議論を展開することで、将来の医療政策を考える手がかりを与えてくれている。

国民皆保険とナショナリズムとネオリベラリズム


本書の議論を私なりの視点で紹介するために、話題をいったん変えよう。一部界隈では、ナショナリズム批判が一定の力を有しているが、ナショナリズムと国民皆保険制度は密接に結びついてる。国民健康保険制度の創始は日中戦争のさなかであり(皇国民族の増強!)、戦後の国民皆保険に向けた動きも、岸内閣の福祉国家ナショナリズムを抜きには語れない。

こうした国民皆保険(national insurance system)は、「同じようなリスクを抱える人びとが、その損失を回避するために加入する」民間の保険制度とは大きく異なる。たとえば、自動車保険の保険料設定は、過去の事故歴などによって細かく等級化されているし、民間の医療保険も加入者の健康状態によって細分化される。ところが、国民皆保険制度の場合は、所得水準や健康リスクが異なる見知らぬ人びと同士が、「同じ国民である」という理由によって、支え合う仕組みになっている。

社会保障制度は、個人で保険料を払えば、保険数理で計算される額に等しい給付金を払ってもらえるという本来の意味の保険プログラムとどんな意味でも似ていない。……社会保障制度を租税制度として見るならば、これを受け入れる人は誰もいない。またこれを給付プログラムとして考えてみても、賛成する人は一人もいない。(M・フリードマン&R・フリードマン『選択の自由―自立社会への挑戦』p.252, 254)

したがって、ナショナリズムを一面的に批判し、他方でネオリベラリズムに抗することができなければ、国民皆保険制度を支える連帯の基盤が失われてしまう(見知らぬ国民同士が、あるいは見知らぬ国民同士だけで支え合う理由がなくなる)。しかし、ナショナリズム批判を展開する者は、現実の国民皆保険制度までも批判したいわけではないだろう(ちなみに、3か月以上の在留外国人は国保に加入することになっている)。

しかし、「懸命に仕事をして、健康に気を遣いながら生活している人間が、なぜ、健康に無頓着で、自堕落な生活を送っている人間の医療費の肩代わりをしなければならないのだ!」といった批判も強まってきている。その先にあるのは医療保険の民営化であり、一面的なナショナリズム批判は、そうした動きに手を貸すだけである。

もっと話を広げれば、国内保護政策を訴えるナショナリズムに対する知識人層による「上から目線の」批判(さらには、普遍的ヒューマニズムによって新たな政治の可能性を開こうというユートピア的提案)は、グローバル経済の恩恵に与れない多くの人びとの反感を呼び、逆にナショナリズムをファシズムへと激化させている。

しかし、以下に見るように、実際のところ、私たちのほとんどは「狭隘な」ナショナリズムによってのみ(=ただ同じ日本人だからという理由だけで)連帯しようとしているのでもなければ、「自己決定=自己責任に従う強い個人」からなる市場の論理によってリスクをヘッジしたいと考えているのでもない。ユートピア的理想は抱きつつも、やはり、現実的な議論が必要だ。

社会保険方式の維持が重要


本書の議論に戻ろう。国民皆保険と一口に言っても、その運用には、社会保険方式と税方式の二通りがある。そして、日本は社会保険方式であり、つまりは、加入者が保険料を拠出し、それに応じて給付が行われている。そして、本書は、以下の理由により、社会保険方式を基本に据えるべきだと論じる。

第一に、自由社会経済との整合性である。私たちが生きる自由経済社会は、個人の自由に高い価値を置く社会でありながらも(自由権の保障)、他方で結果の平等に重きを置く社会権も保証されている。両者はもちろん衝突するが、大切なことは、「この衝突を最小限にとどめる〔ために〕『結果の平等』のみを主張するのではなく、社会保障の制度設計において可能な限り社会経済の基本原則と調和させることが必要」(p.208、強調は引用者)である。そこで、「自立・自助」の要素を持つ社会保険の意義が強調される。

第二に、給付と負担の規律性である。人は誰でも「負担は少なく給付は多い」ことを望む。しかし、そうしたシステムは永続せず、当事者意識を持って、給付と負担の水準を決めることが重要である。その点、社会保険方式が優位に立つ。というのも、

〔社会保険方式では〕国家と個人が直接向き合うのではなくその間に多元的な中間集団(保険者)が決まり、給付と負担の水準が決まり、給付と負担の水準の合意を当事者自治に委ねることにより自律的なガバナンス機能を発揮することが期待できる。一方、税方式ではこのような規律が働きにくい。給付と負担が結びついていないため、国に対し給付の拡大を求めるという一方的な圧力となるからであり、時々の政治状況に左右されやすい。(p.209)

第三に挙げられるのが、税方式に比べて社会保険方式の方が権利性や普遍性が相対的に強いことである。税方式では、税収規模に応じて全体の枠が決まり、疾病の度合い等で優先順位を付けざるを得ないという制約がつきまとう。よって、税方式を採用している国では例外なく「長い待機リスト問題」を抱えている。

こうして、社会保険方式の優位が説かれるのだが、ところが、今日では、高齢化を背景に設立された後期高齢者医療制度に多額の公費が投入され(現在は全体の5割程度)ており、後期高齢者の保険料は1割程度に過ぎない。保険料の租税代替化が進んでいるのだ。

そして、残る4割は、各保険者からの支援金である。しかし、「社会保険なのだから所得の高い人から取るのが当然だという発想で対応すると、そうした者の公的医療保険制度(国民皆保険)に対する内在的支持を失わせかねない」。やはり、「保険料と保険給付の対応関係(対価性)を著しく損なうことは適当ではない」のだ(p.235、強調は引用者)。

以上の点から、本書では、高齢者の保険料と医療費との乖離が大きすぎるとして、公的年金等控除の最低保障額を給与所得控除と合わせることとともに、保険料軽減の特例措置(応益割の9割軽減)について、速やかに国民健康保険並に引き下げるべきであると主張される。

最後にネオリベラリズムの問題に戻れば、医療の市場化(グローバル化)を進めようとする圧力に対して、狭隘なナショナリズムに陥ることなく人びとの連帯意識を維持するためには、ナショナルなアイデンティティを有しながらも、それを唯一至上のものとしない自由経済を生きるアイデンティティの複数性を担保することが必要であると考える。したがって、自由と平等を調和させようとする改革は不可欠であり、本書はそのための手がかりをさまざまに与えてくれている。

目次


序章 問題の所在
第1章 日本の国民皆保険の構造と意義
第2章 歴史から得られる教訓と示唆
第3章 近未来の人口構造の変容
第4章 人口構造の変容が医療制度に及ぼす影響
第5章 医療政策の理念・課題・手法
第6章 医療提供体制をめぐる課題と展望
第7章 医療保険制度をめぐる政策選択
終章 結論と課題

関連リンク



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看護学生に社会学を学ぶ意義を伝える
―2016年06月10日

『〈いま〉を生きる人のための社会学講義ノート』表紙
いくつかの学校で社会学の講義を担当している。本務校の医学科の学生に接するときとは異なる(良い意味での)「刺激」が得られる貴重な機会である。昨年度までは、穴埋め式のスライド資料を毎回、配布していたが、印刷の質がいまいちであること、保管・保存のしやすさを考えて、今年度から冊子版にすることにした。

冊子にするとコストがかかると思われるかもしれない。しかし、一度に数百部発注すれば、毎回のコピー費用(+手間)とたいして変わらず、きれいに仕上がる。もちろん、PDFデータ入稿が前提にはなる。

また、通常、教育機関における著作物の複製・配付は著作権保護の例外として認められているが(著作権法第35条)、冊子体にして配布する場合には、認められない。私の講義スライドには、ドラえもんのコマが不断に登場するが、それは削除して、前後のコマも載せたものを資料として配付することにした。

こうして、『〈いま〉を生きる人のための社会学講義ノート』(170ページ)が完成した。せっかく冊子にしたので、「はじめに(まえがき)」を書くことにした。とりわけ、とある看護学校のごく一部の学生から「どうして看護に関係ないことを学ぶ必要があるのかわからない」という声があったからだ。とはいえ、そうした声を上げるような学生に対して、「はじめに」の内容は難しく、ミスマッチである、と思い至った。

そこで、「はじめに」の文章を衆目にさらし、恥をかくことで、第二版の改善につなげたい。

「はじめに」


社会学とドラえもん
わたしたちは、皆、さまざまな悩みを抱えながら生きています――身近な人間関係、自分の容姿、自分の性格、自分の将来、お金、家族、住まい……。社会学が教えてくれるのは、こうした日々の悩みをもたらす問題は、たとえ「生まれつき」もった心身の特徴に対することであったとしても――たとえば容姿の問題――、必ずしも「自然なこと」ではないことです。

社会学では、「わたし」の悩み(さらには、「わたし」という自己意識)は、自然なものではなく、「社会的」なつながり(仲間集団、家族、地域、学校、職場、国家、インターネットなど―さらには、モノとのつながりも含まれます)によって作り出されていると考えます。そして、多くの人が同じ悩みを抱くとき、それは「社会問題」になります。つまり、社会学は、「なぜ」わたしたちが悩んでしまうのか、なぜ社会問題が生まれるのかを考えさせてくれる学問なのです。

社会学を学び、「自己」がいかに社会的なつながりによって作り出されているのかを知ることで、自分という存在、社会という存在が当たり前のもの(=仕方のないもの)ではなくなります。そして、新たな「自己」と「社会」を不断に作り出していくための知的な力を手にすることができるようになるのです。

講義の方法


この社会学という学問について、これから「社会人」として働く人に向けて基礎的な講義を行うために、この「講義ノート」を作成しました。目次を見てもらえば分かるように、この講義では、身近な社会問題を取り上げ、それぞれのテーマのなかで、「自己」と「社会」(さらには「自然」)の関係を見ていきます。そして、そうした関係を、いつまでも、どこまでも、考え続け、そして、新たに築き上げ続けていくための知的基盤を形成することを目指します。言い換えれば、小難しい学説や理論からではなく、身近な悩みや社会問題から出発することで、社会学の学問的基礎(社会学的想像力)を着実に身につけてもらうことを目指します。

実際の講義は、本書と同内容のスライドを映しながら、進めていきます。本書は、大切なところが穴埋め形式になっているので、講義のスライドを見ながら、穴埋めをしてください。ただし、穴埋めをするだけでは、後で見返したときにスライドの内容を理解することは困難です。後で見返したときに内容が把握できるよう、積極的にメモを取ってください。その意味で、本書はあくまで「ノート」なのです。また、当日の講義スライドは当日中に筆者のウェブサイトにアップしますので、講義中はメモを取ることに専念し、穴埋めは復習時に行っても構いません。

社会科と社会学の違い


社会学は、高校までで学習する「社会科」とは異なります。「社会」の授業が、世の中の常識を教え込むものであるとすれば、社会学の授業の目的は、いかにして、そうした常識が作られてきたのかを学ぶことで、そうした常識に囚われることなく、一人ひとりにより良い人間関係(社会的なつながり)を作り出していく姿勢を身につけてもらうことにあります。

おそらく、最初のうちは、とまどうことになると思います。実際、講義の内容は易しくありません。しかし、ほとんどすべての学生は、自分なりに社会学を学ぶことの意義を見出してくれています。ここで、過去に私の講義を受けてくれた看護学生たちが寄せてくれた意見を見てみましょう。

社会学とは、今まで常識だと思っていたことが、必ずしも「正しいこと」ではないということを学ぶ学問である。看護師は、病気や障害により常識(「普通」)とされている行動が取れない人たちに寄り添っていく職業である。慢性的な病気や障害などで、「この人は普通ではない」というレッテルが貼られてしまうと、そのレッテルを剥がすことは難しく、自分でもそのレッテルを受け入れてしまいかねない。その結果、患者は、社会的弱者という立場に置かれてしまう。

「普通」の立場に立って、患者の「異常」を治すことももちろん必要なことだが(とりわけ急性の疾患の場合には)、すべてがそれで解決するのではない。そこで、社会学を学ぶことで、自分の常識という考えを取り払い、患者の置かれている社会的状況を見つめ直すきっかけになる。そして、普通であることを疑い、「普通であることが正しい」という思い込みを崩していかなければならない。このように「普通」や「常識」に対抗するために、わたしたちは社会学を学ぶ必要がある。

社会学を学ぶことの意義は、偏見やステレオタイプにとらわれたりせずに、常にものごとの本質(どのような人や物との関係にとって成り立っているのか)を見極めることにある。そこで必要とされるのは、個人のプライベートな問題を社会のパブリックな問題とつなげて、統一的に把握する能力である。一人の人間の生活を理解するためには、その人間を取り巻く社会の歴史を理解しなければならない。社会学とは、プライベートとパブリックをつなぐための知識を得るために、さまざまな社会的問題(ジェンダー、家族、都市……)を取り上げ、さまざまな角度から考えるための学問であり、社会を理解することで、一人の人間を理解するための学問である。

看護師として大勢の患者と接する際、患者一人ひとりを見なければならないと言われる。しかし、患者一人ひとりを見るだけでは、患者のことは理解できない。社会に目を向けて、その患者たちはどういった社会で生きているのか(つまりは、自分たちはどういった社会で生きているのか)を観察する必要があるということだ。

病院に来る人は、心身の疾患を抱えた人であり、社会的弱者として扱われることも少なくない。実際に、わたしは、学校のなかで、「病気」という理由でいじめられる人、差別を受ける人、自分が周りと違うことに苦しむ人を見てきた。しかし、「普通でないから差別される」のではなく、誰もが「普通であろうとする」から、スケープゴートなどのかたちで差別が生まれるのである。私たちが「普通」とする日常生活は、差別される人たちの上に成り立っているのだ。差別を無くすためには(とくに治らない病気に苦しむ患者に生きる勇気をもってもらうためには)、普通であろうとする私たちが変わらなければならない。このように、目の前の患者の個人的な問題を解決しようとするだけでなく、自己や社会の改善にも目を向ける態度を養うために、私たちは社会学を学ばなければならない。

社会学に唯一の正解はありません(唯一の正解とは、現実にある多様なつながりを切り捨てることで得られるものにすぎません)。したがって、上記の意見が「唯一の正解」ではありません。とはいえ、「何でも正解」というわけでもありません(「何でも正解」と主張するポストモダン社会学もありますが、私はその立場を取っていません)。そして、「唯一の正解」を疑うとともに、「唯一の正解がない」ことも疑ってください。つまりは、自分なりの答えを求め続け、何らかの答えを出し、そして、常に自分の声に耳を傾け、他者の声に耳を傾け、自分なりの答えに対する責任をとっていく――そうした人生を送るための胆力を学生生活でぜひとも養ってほしいと思います。そして、そのための土台を本講義で築いてくれることを願っています。
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