ごみ捨ての問題と町内会の「正しさ」(3)

この記事は、「ごみ捨ての問題と町内会の「正しさ」(2)」の続きになります。

敬愛すべき非「アカデミック」な社会学者・山本哲士(敬称略)は、次のように現代日本を描写しています。

「社会イズム〔=今日の日本社会〕の判断主体は「規則」「ルール」であって、人間ではない。人間は、規則・ルールに従うことによってはじめて、「主体=従属」者となりうる。自己判断するものは「逸脱者」となる。つまり、集団組織内においては「意志」をもってはならないのだ。これが社会イズムである。……意志とは関係性における、つまりある述語的場所における判断の出現である。……コンテクストとコンテンツとの関係が自己判断できない、自己行使できないゆえ、動こうとしないのである。動かないことで、自分でいられると思っている。意志がないと自分であるという錯覚である。……社会イズムとは、「しない」行動の画一化である。……集団が社会的に行動し個人を無視していくことは、つまりスターリニズムそのものにひっくりかえっていく」(『ホスピタリティ原論』104-5頁)。

町内会は、まさにこの「社会イズム」の典型と見なされることも多いわけですが、必ずしもそうではありません。「秩序」の崩壊を恐れ、規則化、規律化が否応なく進みつつある昨今、わたしたちの世代が引き継ぐべき「柔軟性」を、町内会に見いだすことができるのです。

交通量の多い幹線道路が走る山形新市内の町内会の例です。この町内会では、通勤途中の自家用車が、自分たちのごみステーションに立ち寄り、ごみを勝手に捨てていくことで、大変困っているそうです。そうしたゴミはたいてい分別もされていないので、そのままでは行政も引き取ってくれない。そこで、自分たちで、わざわざ詰め直さねばならず、過去には粗大ゴミを数万円払って引き取ってもらったこともあったそうです。ただし、ここで取り上げたいのは、そうした外部の人間による不法投棄ではなく、町内会の住民によるマナー違反の問題についてです。

具体的には、町内の一人暮らしの高齢者のなかに、ゴミの分別を守らない人がいるそうです。しかし、その人に対しては、1回、説明したものの直らないので、黙認することにしたのだと言います。会長さんいわく、何度も注意すると、「町内の人間がみんなで自分のことを攻撃している」と悪くとられてしまうからだそうです。「ルールを守らないのは、やはりそういう人ですからね。精神状態がよくないわけです。ほかにも、分別をしない人は何人かいますが、見ても注意はしませんよ」。

また、こうしたルール違反を当番の班長が新たに発見しても、その場では決して注意させずに、自分が後から代わりに言いに行かれる。「その場で直接言うと、『戦』になってしまう」。

さらに、深夜に隠れてルール違反のゴミ捨てをする住民も、(当人は知らないだろうが、)きちんと把握しているそうです。「だって、考えてみてください。そんなゴミは、そのままでは回収してくれないわけです。ですから私たちで、きちんと詰め直さなければなりません。見たくなくても、ゴミの中身がみえてしまうでしょう。そこから、捨てたのが誰だか分かってしまうのです」。

しかし、その人に対しても、注意はせずに黙っている。「確かに、粗大ゴミの回収で、数万円とられたときには困りましたが、普段のことは、当番の人なり私が、ちょっと臭い思いをすればそれで済むことじゃないですか」。

ゴミがカラスに食い散らかされていたり、分別がなされていないゴミが未回収のまま放っておかれていたのが、夕方になると「なぜか知らないが」きれいになっている。「しない」生活に慣れきった人びとは、「自動的に」きれいになると思い込んでしまうのかもしれません。

社会生活は、今回まで見てきたような、町内会の人間関係の柔軟さに支えられて成り立っていることを、忘れてはなりません(もちろん、「硬い」町内会もなかにはありましょう)。町内会の「機能」にのみ着目すれば、それは種々の市場や制度によって代替可能なものではありますが、しかし、町内会の「制度」を支えているのは、「非制度的な」柔軟性であり、それがわたしたちの生活の「自由」を支えるものとなっているのです。

次回以降、この柔軟性を、さらに別の側面から見ていきたいと思います。


ごみ捨ての問題と町内会の「正しさ」(2)

この記事は、「ごみ捨ての問題と町内会の「正しさ」(1)」の続きです。

研究者の道は、狭く、険しく、厳しい。博士号を取って、ようやく「ひよっこ」としてゴール無き大競争のスタートラインに立つ。文字通り、この世界で生きるか、死ぬか、をかけて切磋琢磨の日々です(むろん、競争のために学問をやっているわけではありませんが、とにかく食っていかなければどうしようもありません)。

そうしていると、とかく目先の浮沈にとらわれ、大きな地平が見えなくなってきます。そんななかで、調査で、普段は接することのできない方のご自宅に(失礼にも!)上がり込み、お話が聞けるというのは、本当に恵まれたことだと思っています。国内であれ国外であれ、調査を行なう際、私は最後に、人生の先達としてのアドバイスをお願いしているのですが、今日取り上げる町内会とは別の町内会の会長さんから、次の言葉をいただいたことを、とあることをきっかけに思い出しました。

 才子才を恃み愚は愚を守る
 少年才子愚に如かず
 請ふ看よ他日業成るの後、
 才子才ならず愚は愚ならず

(不勉強ゆえ、家に帰ってこっそり調べてみたところ)『偶成』と題された木戸孝允の漢詩による言葉とのこと。意味は、

「才子は才を恃んで努力することがなく、愚者は己の愚かさを知って愚直に努力する。
少年のときは才子よりもむしろ愚鈍なのがよい。
業をなしとげた後を見よ、
少年時代の才子が今は才子ではなく、愚かに見えたものが実は愚かではなく、
全く、その逆であることに気がつくだろう。」

よくある話といえば、よくある話ではありますが、会長さんの人生遍歴をお伺いし、そして、私にこの言葉をくださった、このことが何にも代え難く、人生においてもっとも大事なことであり、それがあって始めて言葉は言葉になる(ちなみに、このことを言語派社会学では「パフォーマティビティ」(performativity 行為遂行性)と呼んでおります)。座右の銘と致します。

いい加減、本題に入ります。

やや緊張しながら、(1)でみた町内会長さんのところへとお伺いにあがりました。最初は、「この調査の何が気に入らないって、云々」とやや距離がありましたが、自営でお忙しいにもかかわらず、長くつきあってくださり、そして、柔軟な考えをもって町内会を運営されている方であるのがわかったのです。

その一例として、ここで、ゴミ処理の問題を取り上げます。この町内会は山形市の中心部に位置し、なかには単身用のアパートも建っており、ここの居住者が町内会に入っていない。そして、こうした人たちがゴミ捨てのルールを守らないそうです。しかし、そうした住民に対して、この会長は、感情的ないし強権的な態度をとったりすることなく、静かに黙認しているというのです。

「正義感で動いてはいけない。確かに、こっちは自分が正義だと思っているけれど、向こうだって自分に正義があると思っている。それを頭ごなしにやったら、余計こじれる。今も正義で戦争をやってるでしょう。でも、正義を振りかざすことよりも『正しい』ことがあるのです。ムキになって注意したら、お互いいやな気分になる。ゴミをきちんと捨てられない人がいる、その事実を事実として客観的に受け止めればいいのです。相手には、自分から気づいてもらうのを待つしかない」

「規則にしたがっているのだから自分は悪くない」という思考停止の規則主義が蔓延する現在の日本社会にあって、この町内会長の態度、さらには町内会の運営力学は、「自由」から逃避する私たちの世代にとって、どうあっても見直されなければならないことです。そして、こうした「規則破り」の柔軟さは、この町内会長にのみみられることではなく、私がお会いした町内会長の多くに見られる態度でもあるのです。

(3)につづく。

ごみ捨ての問題と町内会の「正しさ」(1.5)

この記事は、「ごみ捨ての問題と町内会の「正しさ」(1)」の続きです。

日々、さまざまなところで調査を進めていますが、そのなかで心苦しいことといえば、調査を重ねるごとに不義理を重ねてしまうことです。新たな出会いの機会が増えれば増えるほど、それまでに出会った人と出会えなくなってしまう……などと言っても、それは言い訳に過ぎないのではないか、きれい事ばかりいいやがって、本当は人でなしなんじゃないのか、と悩んでしまう。

そんな私に対して、とある町会長さんにこうおっしゃっていただいたことがありました。

「なんだ、そんなことで悩んでるのか。変なことを気にしすぎだ。別に、あんたに何かお返しをしてもらおうなんて思って会ってるわけじゃない。まだ若いんだから、自分のことを精一杯やりなさい。だけどな、もしあんたが年取ったら、若いやつらに同じように面倒見てやりなさい。それが分かってくれればいい」

この言葉を頂いて以来、私がただ一人で私に私を重ねて思い悩むことはやめにしました(私はダメじゃないかしら、という自己否定は、結局、私という自己が下した裁定である限り、真の自己否定にはなりえない。「否定のうちの安住」にすぎない、ということに気づいたのです)。もちろん、この言葉が、家なり共同体の論理のうちに「閉じたかたちで」発せられたものであれば、私は即座に拒絶することになります。

やや気取って言えば、私という意識は、私という意識を超える遥かなる時空上の連鎖の上に創発するものであり1)、であるとすれば、真の自己否定2)のために、その連鎖のさらなる時空的解放に向けて突き進もう、そう思って日本を離れ、そして歴史に目を向けて調査を続けています。

しかし、現今のネオ・リベラルな競争主義、ポスト・フォーディム的生産=消費様式は、たとえば自己実現の名のもとに、私が「私」であることをあくまで強要してくるのです。しかし、「私は私でありたくない」。もちろん、説教臭い道徳社会主義にも逃げたくない。

それに対して、私の出会ってきた町内会の方々の多くは、「私であること」と「私でないこと」の相反性3)を保ちながら活動しているようにみえたのです。そのことを、ゴミ捨て問題を取り上げて書きたかったのですが、つまらない「自分語り」をしてしまいました。

(2)につづく。

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1)私という意識の創発については、たとえば、安冨歩『複雑さを生きる』(岩波書店)のなかで、宮沢賢治の「わたくしという現象は/仮定された有機交流電灯の/ひとつの青い照明です」に始まる詩が取り上げられ、複雑性の理論が簡明に展開されるなかで、説明されています。また、真木悠介『自我の起原』(岩波書店)も。
2)「真の自己否定」については、ミシェル・フーコー『自己のテクノロジー』(岩波書店)。
3)「私であること」と「私でないこと」の相反性については、ジュディス・バトラーおよび山本哲士の所論。
 

ごみ捨ての問題と町内会の「正しさ」(1)

昨年の9月より、マカオに滞在し現地社会の調査を行なっております。また、正月は香港の国際会議での発表がありましたので、新年の挨拶もままならずすっかり不義理を働いてしまっています。申し訳ありません!

また、ブログの更新が滞っております。いずれ、マカオの町内会である「街坊会」についても紹介したいと思っております(なぜ私が環太平洋アジアの地域住民組織の比較研究に取り組んでいるのかも含め)。よろしくお願いいたします。

今回は、出国前に私が途中まで参加していた山形の調査から、町内会の「正義」についてごみ捨ての問題と関連させて書いていきます。

ごみ収集について、多くの自治体では、地区ごとに「ゴミステーション」などと呼ばれる集積所が設置され、各住民は「自分の地区の」ごみ集積所にゴミ出しをすることになっております。そして、その集積所を管理するのは地区の町内会・自治会です(行政の依頼によって)。

そして、今日の町内会を悩ましているもっとも大きな問題が、このゴミ捨てにまつわる問題です。昨年3月に東北都市社会学研究会が行なった山形市町内会調査では、実に75.7%の町内会が「ゴミ処理」に問題を抱えており、そのうち67.5%の町内会が「町内会の自力で対応している」と回答しています(ちなみに「移動や交通の問題」が第2位で36.9%、「治安・少年非行・風紀の悪化」は20.5%)。

具体的には、どのような問題を抱え、どのように対処されているのでしょうか。そこで、山形の町内会の方々から実際にお話を伺ってみたところ、地域を支える人々の間に実にしなやかな秩序感覚が生きていることに気づかされました(もちろん、町内会の脱退者に対するゴミ捨て禁止といったことが一部地域で問題になっていることは承知しています)。

たとえば、ある町内会長は、今回の質問紙調査の自由回答欄で、次のような「保守的」な見解を述べておられます。

「最近の街では種々の人々の出入が多くなっている為か、他の町内では町内会に入っていない方も居ると聞く。その場合は(会費を出す、出さないには関わりなく)(情報の得られないものは)「何の面倒を見なくてもいいという法律」でも作ってもらわないと困るのでないか。ゴミも出すことは出来ない等、普段は協力しない、黙っている。但し損得に関わるときだけは大きな顔をする。「個人情報保護」などというものの拡大解釈?の出来ないよう「共同社会を営む上では必要な情報(悪用しないことの保障付で)は開示しても良い」ということをPRして。又、憲法の「基本的人権」の項に(第25条)にそれには「基本的義務」の遂行が必要だ――位の事を追加してはどうだろう。」(原文ママ)

町内会否定派の方々は、このような言葉を目にするや、「だから町内会はダメなんだ」と反応されることかもしれませんが、やはり、私としては、「なぜここまでのことを言わなくてはならなくなってしまったのか」という背景事情を省みることなく、自らの「正義」に拠って立って一方的な判断を下すことは慎まねばならないと思っています。

というわけで、この町内会長さんは、今回の調査に対しても辛らつなご意見をお寄せいただいていたこともあり、意を決して、お話をお伺いに行くことにしました。

(2)へ続く

山形市町内会調査(第6次調査票案)

過日お伝えしました、東北都市社会学研究会主催、山形市町内会・自治会調査の調査票について、さまざまにご指摘いただいた箇所を改め、第六次案ができあがりました。
山形市町内会・自治会等調査調査票(第6次案)

8日(木曜)の午前より印刷に入りますので、火曜に最終版を決定する予定です。よろしくお願いいたします。

山形の町内会・自治会【お願い】

現在、東北都市社会学研究会では山形市の地域社会を対象に調査を進めています。

その一環として、この3月に山形市の後援の下で、山形市内の全町内会・自治会を対象に、その基礎的データ収集のための質問紙調査を行うことになりました。

仙台の町内会長の方々には「あの迷惑千万な調査を山形でもやるのか」と言われそうですが、しかし、今回の山形調査では、仙台の調査で浮かび上がった課題をしっかりと反映させ、さらに非常に熱心な市職員の方々と討議を重ね、最後には複数の町内会長さんに事前の調査を行いご助言をいただき、調査票を設計してきました。

現在、研究会のサイトでは、この質問票を公開しております(現在、第5次案)。
山形市町内会・自治会等調査(質問票、PDF)

仙台での調査と比較できるように調査項目はほぼ踏襲しながらも、できるだけ会長方々にご負担をかけることなく具体的かつ恣意性を排除したデータを集めることができるよう設計されているのがお分かりいただけると思います。

週明け月曜の夜半より印刷を開始することになっており、それまで調査票の推敲を重ねていきたいと考えております。そこで、本調査票の内容や山形調査プロジェクトに関して、さまざまな方からご指摘、ご意見、ご批判をいただければ、大変うれしく存じます(研究会のサイトよりメールをお寄せください)。

東北都市社会学研究会
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~ito/atus.html

本調査は日本学術振興会科学研究費補助金によって行われます。「地域」や「コミュニティ」のあり様が今日再び全国的に大きな関心を集めるなかで、今回の町内会調査は東北地方のみならず日本社会全体の今後の方向性を探るうえで極めて重要な位置を占めております。

ご協力の程、どうか、よろしくお願い申し上げます。

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