スポンサーサイト
―--年--月--日

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
このエントリーをはてなブックマークに追加

国民皆保険の堅持とは―島崎謙治『医療政策を問いなおす』
―2016年07月24日

島崎謙治『医療政策を問いなおす―国民皆保険の将来』書影
2016年7月29日に、第65回東北公衆衛生学会が山形にて開催される(所属講座が事務局となり、村上正泰教授が学会長を務める)。特別講演の講師は政策大学院大学の島崎謙治教授であり、その近著が、『医療政策を問いなおす―国民皆保険の将来』(ちくま新書、2015年)である。医療政策にそれほど詳しくない医療関係者や一般市民を対象に、「国民皆保険の堅持」に焦点を当てて、現在までの医療政策の歴史と医療制度を概説するとともに、将来の医療政策を考える手がかりを与えてくれている。

国民皆保険の堅持=形骸化!?


今日、TPPなどを背景とした医療の市場化、ネオリベラル化への圧力が強まるなか、「国民皆保険制度の堅持」が訴えられている。しかし、本書でまず示唆されるのは、単に国民皆保険の制度を維持するだけでは、実質としての国民皆保険が堅持されるとは限らないことである。

というのも、国民皆保険の成立過程を振り返ると、国民全員が公的医療保険でカバーされるという国民皆保険が達成されたのは1961年である一方、すべての国民が必要に応じて適切な医療を受けられるようになるまで(=「真の意味」での国民皆保険の達成)には、10年の成熟期間を要したからだ。つまり、その間に、給付制限(同一疾病の給付期間上限3年)が撤廃され、給付率が引き上げられ(5割→7割)、高額療養費制度が導入され、医療提供体制が大幅に拡充されたのである。

こうした皆保険を成立させた要件として本書で掲げられているのは、経済成長、連帯意識、政治的リーダーシップ、制度設計・管理者、基礎的行財政の環境であり、今日ではそれらの条件が失われつつある。したがって、「『国民皆保険制度の堅持』という旗は掲げたまま、給付範囲や給付率の縮減、地域医療の崩壊が進み、国民皆保険が形骸化する」危険があるのだ(p.24)。

そこで、国民皆保険を真に堅持するためには、医療提供体制と医療保険制度にさまざまな改革・改善が求められることになる。本書では、そうした改革・改善について、極端な立場から極論を煽り立てることなく、複眼的な議論を展開することで、将来の医療政策を考える手がかりを与えてくれている。

国民皆保険とナショナリズムとネオリベラリズム


本書の議論を私なりの視点で紹介するために、話題をいったん変えよう。一部界隈では、ナショナリズム批判が一定の力を有しているが、ナショナリズムと国民皆保険制度は密接に結びついてる。国民健康保険制度の創始は日中戦争のさなかであり(皇国民族の増強!)、戦後の国民皆保険に向けた動きも、岸内閣の福祉国家ナショナリズムを抜きには語れない。

こうした国民皆保険(national insurance system)は、「同じようなリスクを抱える人びとが、その損失を回避するために加入する」民間の保険制度とは大きく異なる。たとえば、自動車保険の保険料設定は、過去の事故歴などによって細かく等級化されているし、民間の医療保険も加入者の健康状態によって細分化される。ところが、国民皆保険制度の場合は、所得水準や健康リスクが異なる見知らぬ人びと同士が、「同じ国民である」という理由によって、支え合う仕組みになっている。

社会保障制度は、個人で保険料を払えば、保険数理で計算される額に等しい給付金を払ってもらえるという本来の意味の保険プログラムとどんな意味でも似ていない。……社会保障制度を租税制度として見るならば、これを受け入れる人は誰もいない。またこれを給付プログラムとして考えてみても、賛成する人は一人もいない。(M・フリードマン&R・フリードマン『選択の自由―自立社会への挑戦』p.252, 254)

したがって、ナショナリズムを一面的に批判し、他方でネオリベラリズムに抗することができなければ、国民皆保険制度を支える連帯の基盤が失われてしまう(見知らぬ国民同士が、あるいは見知らぬ国民同士だけで支え合う理由がなくなる)。しかし、ナショナリズム批判を展開する者は、現実の国民皆保険制度までも批判したいわけではないだろう(ちなみに、3か月以上の在留外国人は国保に加入することになっている)。

しかし、「懸命に仕事をして、健康に気を遣いながら生活している人間が、なぜ、健康に無頓着で、自堕落な生活を送っている人間の医療費の肩代わりをしなければならないのだ!」といった批判も強まってきている。その先にあるのは医療保険の民営化であり、一面的なナショナリズム批判は、そうした動きに手を貸すだけである。

もっと話を広げれば、国内保護政策を訴えるナショナリズムに対する知識人層による「上から目線の」批判(さらには、普遍的ヒューマニズムによって新たな政治の可能性を開こうというユートピア的提案)は、グローバル経済の恩恵に与れない多くの人びとの反感を呼び、逆にナショナリズムをファシズムへと激化させている。

しかし、以下に見るように、実際のところ、私たちのほとんどは「狭隘な」ナショナリズムによってのみ(=ただ同じ日本人だからという理由だけで)連帯しようとしているのでもなければ、「自己決定=自己責任に従う強い個人」からなる市場の論理によってリスクをヘッジしたいと考えているのでもない。ユートピア的理想は抱きつつも、やはり、現実的な議論が必要だ。

社会保険方式の維持が重要


本書の議論に戻ろう。国民皆保険と一口に言っても、その運用には、社会保険方式と税方式の二通りがある。そして、日本は社会保険方式であり、つまりは、加入者が保険料を拠出し、それに応じて給付が行われている。そして、本書は、以下の理由により、社会保険方式を基本に据えるべきだと論じる。

第一に、自由社会経済との整合性である。私たちが生きる自由経済社会は、個人の自由に高い価値を置く社会でありながらも(自由権の保障)、他方で結果の平等に重きを置く社会権も保証されている。両者はもちろん衝突するが、大切なことは、「この衝突を最小限にとどめる〔ために〕『結果の平等』のみを主張するのではなく、社会保障の制度設計において可能な限り社会経済の基本原則と調和させることが必要」(p.208、強調は引用者)である。そこで、「自立・自助」の要素を持つ社会保険の意義が強調される。

第二に、給付と負担の規律性である。人は誰でも「負担は少なく給付は多い」ことを望む。しかし、そうしたシステムは永続せず、当事者意識を持って、給付と負担の水準を決めることが重要である。その点、社会保険方式が優位に立つ。というのも、

〔社会保険方式では〕国家と個人が直接向き合うのではなくその間に多元的な中間集団(保険者)が決まり、給付と負担の水準が決まり、給付と負担の水準の合意を当事者自治に委ねることにより自律的なガバナンス機能を発揮することが期待できる。一方、税方式ではこのような規律が働きにくい。給付と負担が結びついていないため、国に対し給付の拡大を求めるという一方的な圧力となるからであり、時々の政治状況に左右されやすい。(p.209)

第三に挙げられるのが、税方式に比べて社会保険方式の方が権利性や普遍性が相対的に強いことである。税方式では、税収規模に応じて全体の枠が決まり、疾病の度合い等で優先順位を付けざるを得ないという制約がつきまとう。よって、税方式を採用している国では例外なく「長い待機リスト問題」を抱えている。

こうして、社会保険方式の優位が説かれるのだが、ところが、今日では、高齢化を背景に設立された後期高齢者医療制度に多額の公費が投入され(現在は全体の5割程度)ており、後期高齢者の保険料は1割程度に過ぎない。保険料の租税代替化が進んでいるのだ。

そして、残る4割は、各保険者からの支援金である。しかし、「社会保険なのだから所得の高い人から取るのが当然だという発想で対応すると、そうした者の公的医療保険制度(国民皆保険)に対する内在的支持を失わせかねない」。やはり、「保険料と保険給付の対応関係(対価性)を著しく損なうことは適当ではない」のだ(p.235、強調は引用者)。

以上の点から、本書では、高齢者の保険料と医療費との乖離が大きすぎるとして、公的年金等控除の最低保障額を給与所得控除と合わせることとともに、保険料軽減の特例措置(応益割の9割軽減)について、速やかに国民健康保険並に引き下げるべきであると主張される。

最後にネオリベラリズムの問題に戻れば、医療の市場化(グローバル化)を進めようとする圧力に対して、狭隘なナショナリズムに陥ることなく人びとの連帯意識を維持するためには、ナショナルなアイデンティティを有しながらも、それを唯一至上のものとしない自由経済を生きるアイデンティティの複数性を担保することが必要であると考える。したがって、自由と平等を調和させようとする改革は不可欠であり、本書はそのための手がかりをさまざまに与えてくれている。

目次


序章 問題の所在
第1章 日本の国民皆保険の構造と意義
第2章 歴史から得られる教訓と示唆
第3章 近未来の人口構造の変容
第4章 人口構造の変容が医療制度に及ぼす影響
第5章 医療政策の理念・課題・手法
第6章 医療提供体制をめぐる課題と展望
第7章 医療保険制度をめぐる政策選択
終章 結論と課題

関連リンク



関連文献


医療政策を問いなおす ――国民皆保険の将来 (ちくま新書)
筑摩書房 (2015-12-11)
売り上げランキング: 17,366

日本の医療―制度と政策
島崎 謙治
東京大学出版会
売り上げランキング: 98,870
スポンサーサイト
このエントリーをはてなブックマークに追加

公衆衛生学実習:デザイナーベイビー~自己の改変と社会の改変のあいだ~
―2015年08月01日

「デザイナーベイビーをめぐる意識調査」
今年度から、本学医学科4年の公衆衛生学実習に関わることになった。この実習は、学生が10数名ずつに分かれ、チュートリアル教育方式で教員がつき、グループ学習・調査を進めるというものだ。今年は、約1か月のあいだに、週1、2コマの時間が割り当てられた。

私は、「生命倫理」班を担当することになり、具体的なテーマは、班員一人ひとりからの提案と投票の結果、「デザイナーベイビー」になった。もちろん、私は、「デザイナーベイビー」の専門家でも何でもないので、学生さんたちが自主的に学習をし、調査の仮説を設定する作業を行うことになった。

デザイナーベイビーとは


初回にテーマ設定ができたので、次回(翌週)までに、各人がデザイナーベイビーに関する文献を1本ずつ読んで、発表することになった。

(ちなみに、その際、「読んでくる文献が重ならないように、選んだ文献を班長に報告して、班長が確認したらどうか」と提案したら、「LINEでグループを作って共有するので問題ない」と即答されました。)

デザイナーベイビーとは、「優れた」形質をもつドナーからなる精子・卵子バンクから、望んだ形質が子供に現れる可能性が高まる卵子と精子を組み合わせたり、あるいは受精卵の段階で直接遺伝子操作を行なうことで、親が望む外見や能力などをもった子どもを生まれさせようとする技術だ。

多くの人びとは、こうした遺伝子操作を非倫理的なことであると考えるだろう。現在のところ、先天性疾患の治療法としての遺伝子操作の研究が進んでいるが、そうした研究も、デザイナーベイビーにつながりかねないとの懸念も根強く、どこまでを遺伝子操作の対象とすべきかの議論もなされている。

他方で、そうした遺伝子の強化(エンハンスメント)が、(かつての優生学とは異なり)個人の自由に委ねられるのであれば、何も悪いことはないと主張する人もいる。親は自分たちの子どもに最良のスタートを切らせる自由を持つべきだし、貧富の格差が問題になるのであれば、課税や補助金によって、子どもの遺伝子の経済格差が生まれないようにすれば良い、などと主張するのである。

問題意識と仮説設定~個々人の生命倫理観は、個人の人生経験や自己評価によって左右される


しかし、本当に個人の選択の問題に過ぎなくなるのか。よく言われるように、遺伝子操作に対する私たちの志向が、人びとに過度のエンハンスメント(社会適応のための自己強化)を強いる社会の構造がもたらしている面もあるとすれば、遺伝子操作を個人の選択に委ねることは大きな問題をはらむのではないか――これが、学生の皆さんが出してきた問題意識であった。

つまり、個々人が一定の倫理観(デザイナーベイビーに対する懸念)を持っていても、デザイナーベイビーを生み出す遺伝子操作技術への態度が、人生経験や自己評価によって左右されてしまう可能性があるならば、過度の競争を強いる社会のありようが変わらない限り、自然と遺伝子操作の対象が拡大し、底なしの競争が引き起こされる危険性があるのではないか、というわけだ。

そこで、「社会に影響され形成された自己評価が、当人の生命倫理観に影響を及ぼす」という仮説設定にもとに、デザイナーベイビーの技術が利用可能となった場合にどのような使い方をするのかに関するアンケートを、医学部内の教職員と学生に対して実施することになった。

アンケートでは、まず、自分の外見・健康状態・能力(学力・運動能力など)に対する自己評価(満足度)を聞いており、次に、自分がデザイナーベイビーを利用する場合に、外見・健康状態・能力それぞれについて、夫婦間の遺伝子を用いてであれば選択したいか、他人の遺伝子を用いて外見を選択したいのかを聞いている(その際、配偶者の外見・健康状態・能力のことは考えないものとされている)。個人属性は、年齢、性別、子どもの有無、職業(医療従事者/非医療従事者/学生)である。

能力に不満を持つ人は能力に関する遺伝子選択をしたいという結果に


集まったデータを集計し多変量解析を含む分析を行った結果、実際に、とりわけ能力に不満を持つ人は能力に関する遺伝子選択をしたいと思っているなど、個々人の生命倫理観が、個人の人生経験によって左右されうることが示された(詳しくは、報告書のPDF)。そして、報告書では、次のような結論に達している。

今回のアンケートによって、個々人の生命倫理観が、個人の人生経験によって左右されうることが示された。人はそれぞれ自分の中に一定の生命倫理観というものを持っているだろうが、個人の悩み・不安――そして、その背景にあるかもしれない社会からのエンハンスメントの圧力――によってその生命倫理観が揺らぐことは十分にありうる。実際、今回のアンケートでも、能力に不満を持つ人は能力を選択したいと思っているという結果が出た。

そして、将来、自己決定・自己責任の名の下にデザイナーベイビーの技術が一般的になった場合、それを使わないと選択した親は、子に与えられるものを与えなかったと社会から責められることになるかもしれない(さらには、子どもからも責められることになるのかもしれない)。その結果、ありのままの子どもを愛せなくなる可能性も指摘できる(子どもも「自分が生まれてきて良かったんだ」と思えなくなるかもしれない)。能力がたまたま与えられたものであるという意識がなくなったときに社会の連帯が失われるという指摘もある。

したがって、デザイナーベイビーが利用できるようになる未来を見越して、その生命倫理上の是非はもちろんのこと、他人の能力までをも自分のものにしたいという思いが生み出す底なしの能力競争から人びとを守るという点から議論を重ねることが必要である。健康に関する限定的な利用を認める場合でも、健康と不健康を適切に線引きする法整備がなされなければならない。

もちろん、短い時間かつチュートリアル教育なので(基本的に教員は手を出さない)、ひとつの研究としてみると、突っ込みどころはたくさん残されている(報告書の分量も制限があった)。しかし、「この手の実習は、往々にして、本気で取り組まず、単に『~~について調べました』になるんだろう」という私の思い込みに反して、今回の実習は、明確な問題意識に基づき、仮説を立て、統計学的に検証するというプロセスをしっかりと踏んでいる。

最後の発表会(プレゼン)では、他の班も同様に、課題設定から仮説検証に至るプロセスを踏んでおり、プレゼン発表も訴求力を高める工夫(聴衆への問いかけから発表が始まるなど)がさまざまになされていた(テーマは、大学の室内環境と集中力、ボディイメージのズレと健康意識、医学生の就職先希望と大学の魅力、動脈硬化予防を目的としたAI検査の活用などなど)。

チュートリアル形式は、教員の一方的な自己満足の講義に終わることなく、学生と教員が刺激し合える関係を作れるという点でも優れていると感じた。

designbaby2015.jpg
▽学生と教員による投票結果の発表後の記念撮影。

関連リンク



関連文献



完全な人間を目指さなくてもよい理由-遺伝子操作とエンハンスメントの倫理-
マイケル・J・サンデル
ナカニシヤ出版
売り上げランキング: 75,439
このエントリーをはてなブックマークに追加

社会民主主義の舞台としての自治体病院―伊関友伸『自治体病院の歴史』
―2015年01月15日

『自治体病院の歴史―住民医療の歩みとこれから』表紙
昨年10月に医療経済研究機構より研究助成をいただき、「青森県西北五地域における広域ネットワーク型自治体病院再編による住民受療行動の変容」をテーマとした調査研究を始めている。

かつて私は山形県置賜地方で同様の調査を実施しているが、今回は、その時の反省――地域包括ケア等における自治体病院の存在意義――を踏まえ、社会的ネットワーク論の視点から住民の医療アクセスを客観的に評価し、自治体病院再編の検証を行いたいと考えている(「自治体病院がつぶれる!?―地方公営企業会計制度見直しの影響」の記事も参照されたい)。

そこで、研究の指針を磨くべく、昨年末に、自治体病院研究の第一人者である城西大学の伊関友伸教授(行政学)の謦咳に接する機会を与えていただいた。そして、最新刊である『自治体病院の歴史―住民医療の歩みとこれから』(三輪書店)を踏まえ、数々のご教示をいただくことができた。

本記事では、同書の一端をかいつまんで紹介し、自治体病院改革のあるべき方向性を改めて確認することにしたい。

「制度」を支える「感情」(共感)


伊関教授は、自治体病院の経営再建のアドバイザーとしても各地でご活躍されている。そこで何よりも重視されるのが、「制度」もさることながら、人びとの「感情」(共感による行動)である。というのも、

意見対立のなかで、とにかく「制度」をつくり、人に「強制」すればよいという考えもある。しかし、どこかに矛盾としわ寄せが起きる可能性が高い。どのように精緻に「制度」をつくっても、かならず制度の隙間が生まれ、新たな問題を生じさせる危険性が高い。隙間を様々な関係者が埋めていかなければ、「制度」はうまく運用できない。隙間を埋めるには、すべての関係者が前向きに行動を行うことが必要である。関係者に「共感」があるほうが、積極的な行動を期待できるし、「強制」による「反発」が強すぎると、人びとの前向きな行動は期待できない。「共感」による人の積極的な行動が隙間を埋めるのである。(p.619)


本書では、「自治体病院の意義」を明らかにするために、明治以降の自治体病院をはじめとする公的医療機関の歴史が、600ページ以上にわたって丹念に描き出される。それは、制度、政策面での乾燥した記述に留まることなく、各地の病院史など膨大な資料渉猟によって、当時の人びとの「思い」までもが浮き彫りにされるかたちでなされているのである(したがって、とても読みやすい!)。

「住民医療」の舞台としての自治体病院


本書では「地域医療」の代わりに「住民医療」という言葉が用いられている。地域の医療を守っていくためには、住民は「お客様」ではなく、「当事者」として参加することが必要であるからであり、そうした文化は自治体病院(その源流である公立実費診療所や医療利用組合)を舞台にして培われてきた。そして、本書を通読することで、「自治体病院が、住民に『いかに平等に医療を提供するか』と『いかに安い『費用』で医療を提供するか』という2つの命題を実現するために知恵を絞ってきたかが分かる」(p.3)。ここでの「費用」は、住民が安い費用で医療を受けられることに加え、医療保険の運営コストをトータルで安くすることも含まれる。

さらには、「住民が健康づくりを行い、医療費総額を抑えようという予防医療の考え方や、医療と福祉と健康づくりを一体的に運営する地域包括ケアの考え方は、医療利用組合や国保直診の医療機関から生まれてきた考えであった」ことも、大正・昭和初期の公立実費診療所や医療利用組合と当時の医師会の対立にまで遡って論じられる。

次には、戦後の自治体病院の発展と危機も網羅されており、今後の自治体病院史研究の橋頭堡をなす書ともなっている。これは私の不勉強だが、1962年に設立された全国自治体病院協議会(全自病)の歴史的背景と当時の関係者の「思い」を初めて知った。

つまり、全国自治体病院協議会は「武見日本医師会の政治的な圧力と経営の困難さのなかで、自治体病院は生き残りのため、自治体病院の大同団結の動きを進める」(p.303)なかで設立されたものであり、「自らの生き残りをかけて、自治省との結びつきを深めていき、地方公営企業法の財務規定の適用など経営の効率化を行う一方、国や地方自治体の財政支援の確立を目指した」(p.314)のであった。

自治体病院改革が目指すべき方向


他方で、自治体病院は無批判に称揚される存在でもない。この点についても、本書では、イデオロギーではなく現場感覚に裏打ちされた分析と知見が示される。たとえば、地方公営企業法改正(1966年)を契機とした病院の独立採算制、営利化、合理化推進に対する自治労による反対闘争について、北九州市立病院と新潟県立病院を取り上げ、こう結論される。

筆者は、労働組合の意義は否定しない。病院職員の労働環境を守ることは、質の高い医療につながる。……〔しかし〕過激な労働運動自体は、一部の住民の共感を生む一方、反発する住民も生む。すべての住民の共感を生むには、医療現場における職員の努力と医療の質を高くしようとする理念と具体的な方策が必要となる。新潟県立病院の夜勤制限闘争は、「看護婦の雇用環境の向上が医療の向上につながり、住民・患者の安心が高まる」というメッセージが住民・議会全体に伝わり、共感を広げたケースであると考える。(p.374)


また、今日の自治体病院改革に対しても、「病院の運営の自由度を高めるためには、地方独立行政法人制度の導入など経営形態の変更が必要であると病院長や病院の幹部が判断するのであれば、導入に踏み切ることもやむを得ないと考える」(p.629)としつつ、市場原理と顧客主義(NPM)の導入の問題点が明確に示される。つまり、「住民は『お客様』ではなく、地域医療の『当事者』であり、地域の医療を守るための責任を持つ」(p.628)からであり、「要はバランスの問題である。市場にすべて『お任せ』ではなく、適切な競争に組み合わせて地域の信頼や連帯の視点を意識した政策が行われるべき」(p.616)なのである。

今日の自治体病院改革は、住民が意識を変え、互いにつながり、医療者ともつながり、どの程度の費用負担によって、どの程度の医療を望み、支え合っていくのかを民主的に決定する文化を醸成する契機とならなければならないのだ。

社会民主主義の舞台としての自治体病院


ここまで同書のごくごく一部を概観してきたが(同書では、医療制度、医療政策、医育、公衆衛生、医療保険制度、地方財政制度などとの連関のなかで自治体病院のさまざまな)、広く見れば、宮本太郎が指摘するように(『福祉政治―日本の生活保障とデモクラシー』)、日本の生活保障は、社会保障支出を抑制したまま、公共事業や業界保護による雇用保障を通して成立してきた(家族と連携して社会保障を代替してきた)。そして、仕事の配分による雇用保障は、(明示的なルールではなく)裁量的な行政と政治家の口利きによって進められ、さまざまな利権を増殖させてきた。

その結果、福祉や社会保障が政治的争点の中心になることはなく、日本社会に社会民主主義の文化が根付くことはなかった。近年になり、ようやく「社会保障と税の一体改革」が実施されるなどの動きが起きているが、市場主義的な視点からのみ改革を進めようとする勢力もまだまだ存在する。

同書によって、自治体病院は、数々の制度疲労を起こしている一方で、そうした社会民主主義の文化を醸成する舞台ともなってきたことが明らかにされていると言えよう。そうした意味でも、健康や生命の問題を経済合理性の問題に狭めてしまうような自治体病院改革は認められるべきではない(「なぜリスクは過小/過大に評価され、専門知が貶められるのか―メアリ・ダグラスのリスク文化論」の記事、さらには、本学医学科3年生の研究室研修報告書「山形県における病床機能報告制度・地域医療構想の課題」も参照されたい)。

もちろん、経済合理性の問題も無視することはできない。改革の方向性を個々の地域や病院の判断に委ねるだけでは、非効率な診療機能・医療設備の重複が残される可能性があり、医療経済面では、部分最適は実現されても、全体最適には至らない可能性がある(その典型が、今日の人口減少=過剰住宅社会のなか、移住者を呼び込むために地方の小規模自治体が進めているスプロール的な宅地開発である)。

とはいえ、強権的に広域型の自治体病院再編がなされれば、地域の住民や医療者の「感情」を無視することになり、ひいては住民医療の文化を毀損することになりかねない。自治体病院再編がどのようになされ、それによって住民医療の文化(広くは健康の経済的交換不可能性を主張する社会民主主義を含めた多元的な文化)がどう変化するのか/変化しないのかをも視野に入れた調査研究を進めてきたい。

目次


第一章 公立病院の隆盛と衰退(明治初期~中期)
一 公立病院隆盛期(西洋医学伝達の場としての公立病院設置の時期)
二 内務省衛生局の自治的公衆衛生政策の挫折
三 廃止が続く公立病院
四 行政目的達成のための施設(伝染病、性病、精神病、ハンセン病)
五 施療医療と公立病院
六 明治期に公立病院が必要であったのか

第二章 医療の社会化運動から戦時医療体制へ(明治末期・大正期・昭和前期)
一 貧富の差の拡大による疾病の増加と恩賜財団済生会の設立
二 大正デモクラシーと医療の社会化運動
三 社会政策の進展と公立病院
四 明治後期、大正期、昭和初期の医師養成
五 農山漁村の経済破綻と医療利用組合運動
六 国民健康保険法の制定
七 厚生省の創設
八 戦時体制により増大する地方団体の事務と地方への財源移譲
九 戦時中の公立病院、産業組合病院
一〇 戦時中の医師養成(臨時医専、戦争末期の官公立医専の新設)

第三章 戦後の復興と医療再建の時代(昭和戦後復興期)
一 第二次世界大戦の敗戦とGHQによる改革
二 国民健康保険制度の再建
三 「蚊とはえのいない生活」を目指した地区衛生組織活動(民衆組織活動)
四 当時の地方財政の状況と自治体病院の経営
五 公的性格をもつ医療機関の状況①(国の設置する病院)
六 公的性格をもつ医療機関の状況②(公的医療機関の設置する病院)
七 公的性格をもつ医療機関の状況③(現業、公社直営病院、各種共済組合病院)

第四章 国民皆保険の達成と自治体病院の試練(昭和高度成長期)
一 高度経済成長と自治体病院の危機
二 医療法改正による「公的病院の病床規制」
三 自治省との関係強化と地方公営企業法の財務適用
四 国保直診医療施設の危機と地域包括ケア
五 全国自治体病院協議会と全国国民健康保険診療施設協議会の関係
六 疾病構造の変化と自治体結核病院の一般病院化
七 経営難に苦しむ公立医科大学(国立大学への移管運動)
八 病院の経営改善に対する労働組合の反対運動

第五章 医大新設ブームと医療費抑制政策(昭和安定成長期~平成バブル期前後)
一 高度経済成長の歪みへの対応と医療の動き
二 医大新設ブーム
三 救急医療・へき地医療問題の発生と対応
四 第二臨調と医療費抑制政策
五 盛り上がる地方行革の機運と自治体病院
六 高齢者福祉・介護政策の展開(ゴールドプランと介護保険制度導入)

第六章 新自由主義的行政改革の時代(平成期・橋本行革以降)
一 橋本・小渕・森内閣の行政改革
二 地方分権改革、市町村合併と保健・医療・福祉政策への影響
三 小泉政権の新自由主義的医療改革
四 国立病院や社会保険病院・厚生年金病院の改革
五 改革を迫られる自治体病院
六 医師不足問題とあいつぐ自治体病院の経営崩壊
七 地域医療再生の動きと自治体病院

第七章 自治体病院と住民医療のこれから
一 自治体病院の歴史から学ぶもの
二 自治体病院の存在意義
三 これからの地域における医療の課題
四 自治体病院という組織に限界はないのか
五 医師の勤務する地域づくり
六 自治体病院の変革を起点にした日本の医療再生


関連リンク



書誌情報


自治体病院の歴史 住民医療の歩みとこれから
伊関 友伸
三輪書店 (2014-07-25)
売り上げランキング: 104,284

福祉政治―日本の生活保障とデモクラシー (有斐閣Insight)
宮本 太郎
有斐閣
売り上げランキング: 173,692

このエントリーをはてなブックマークに追加

第40回山形県公衆衛生学会、3月5日開催
―2014年03月01日

第40回山形県公衆衛生学会ポスター
第40回山形県公衆衛生学会が、3月5日(水)山形大学医学部にて開催されます。学会長を本講座の村上正泰教授が務め、私は事務局長を仰せつかっています。

例年、県内各地の医療機関、行政機関、関係団体などから幅広い参加者があり、今回は、例年を上回る54演題の応募と227名の事前参加申し込みがありました。

本年の特別講演は、千葉県柏市において在宅医療モデル「柏プロジェクト」を展開している辻哲夫先生(東京大学高齢社会総合研究機構特任教授、元厚生労働事務次官)をお招きしています。演題は「超高齢社会の到来と医療政策の展望」です。

県内の公衆衛生に関心を持つ方であれば誰でも自由に参加できます。当日参加も可能です(参加費2,000円、講演集代を含む;学生は無料)。私も裏方として万全の準備を整えていますので、ご関心のある方は、ぜひともご参加ください。

学会プログラム


  • 受付開始 09:00~

  • 一般講演Ⅰ 09:30~10:20
    A会場(学校保健)、B会場(健康づくり)、C会場(地域保健)

  • 一般講演Ⅱ 10:25~11:15
    A会場(親子保健①)、B会場(在宅・訪問看護)、C会場(歯科保健・老人保健)

  • 一般講演Ⅲ 11:20~12:00
    A会場(親子保健②・看護管理)、B会場(感染症予防・その他)、C会場(食品衛生)

  • 学会長挨拶 13:10~13:15
    A会場 山形大学大学院医学系研究科医療政策学講座 教授 村上正泰

  • 特別講演 13:15~14:50
    A会場 辻哲夫先生「超高齢社会の到来と医療政策の展望」

  • 一般講演Ⅳ 15:00~16:00
    A会場(生活習慣病対策)、B会場(精神保健福祉)


辻哲夫先生著書


2030年超高齢未来破綻を防ぐ10のプラン―ジェロントロジーが描く理想の長寿社会
東京大学ジェロントロジーコンソーシアム
東洋経済新報社
売り上げランキング: 61,257

日本の医療制度改革がめざすもの
辻 哲夫
時事通信出版局
売り上げランキング: 315,852

このエントリーをはてなブックマークに追加

SQLによるDPCデータ分析―MEDI ARROWSとともに
―2014年01月30日

藤森研司『DPCデータ分析―アクセス・SQL活用編』
山形県の寄附講座事業の一環として、県内病院のDPCデータ(個人情報を外した診療録情報、診療明細情報、行為明細情報)を集積し、診療実態・治療実績等の分析を進めている。

ニッセイ情報テクノロジー社のMEDI ARROWSを採用して分析をしてきたのだが、このソフトウェアのありがたいところは、構築されたデータベースがユーザーに開放されており、ODBCやSQLで利用できることだ。DPC分析ソフトは数々あるが、いずれも分析できる内容・容量に限界がある。したがって、データベースにユーザーが直接アクセスできることは必須である。

では、データベースにどのようにアクセスすべきなのか。当初はAccessを用いていたが、そもそもデータベース操作の経験など私にはない。しかも、Accessは、ファイルサイズに上限があり、処理スピードも遅く、クエリの全体像の把握も容易ではない。したがって、試行錯誤もしづらい。とはいえ、直にSQL文を書く知識などろくになかった……。

しかし、『DPCデータ分析―アクセス・SQL活用編』などの著者でもある藤森研司先生にお会いする機会があり、その際にSQLのすばらしさの一端を教わった。山形市立病院済生館の岩渕先生(呼吸器内科)がスラスラとクエリを書いてしまうのも目の当たりにした。一念発起せざるをえない。SQL Serverで取り組むことになった(さらに岩淵先生にはデータベースをインタラクティブかつフレキシブルに集計・可視化するツールとしてQlikViewを紹介いただいた←これは本当に便利! 独学で十分に使いこなせる)。

SQL習得の道


ミック著『SQL ゼロからはじめるデータベース操作』ミック著『達人に学ぶ SQL徹底指南書』
『DPCデータ分析―アクセス・SQL活用編』では、ミック著『達人に学ぶ SQL徹底指南書』が良書として推薦されているが、これは「ある程度SQL文が書けるようになると、読んでためになる良書」であるという。そこで、同著『SQL―ゼロからはじめるデータベース操作』を手に取ったところ、とてもわかりやすい。プログラミングそのものの知識がなくとも、ほとんどひっかかることなく「おもしろく」読み切ることができた。

とはいえ、実を言うと、相関サブクエリとEXISTS述語の節+練習問題は流し読みしていた……「分かった気になっていただけ」である。『達人に学ぶSQL徹底指南書』が自分の浅はかさに気づかせてくれた。「1-2 自己結合の使い方」でさっそく躓いた。「同じテーブルに異なるテーブル名が与えられて、それぞれを参照している??」と頭が混乱したが、『ゼロからはじめるデータベース操作』を読み直すと、相関サブクエリの節にしっかりと書いてあった……。

確かにこのイメージをつかむことで、「集合指向言語としてのSQL」の本領世界がだんだんと開かれていく。『指南書』によれば、SQLの基礎には、集合論と述語論理があるという。私は、しっかりと、その2つを体現していた相関サブクエリとEXISTS述語の節を流し読みしていたのだ! いずれにせよ、こうして、2,000円前後でSQLの基礎が確実に「楽しく」学べるのだから、本書は安い(世の中には、もっと高くて、不親切で、そして何も残らない本があふれている!)。

SQLによるDPCデータ分析の一例


ただし、実際のDPCデータ分析で複雑なクエリを必要とする機会はそれほどない。たとえば、医療の質評価事業の「術後の大腿骨頸部骨折/転子部骨折の発生率」を算出する場合、手術1~5から「K920$ 輸血」などを除外した上で、手術1~5の各手術日の最古日を手術日として術後日数を算出しなければならないが、初学者であった私にはその方法が良く分からなかった。そこで、ニッセイ情報テクノロジー社のKさんよりご教示いただいて、下記のようなクエリを作成することになった。

SELECT
temp1.[000 入院番号],
min(temp1.計算用手術日),
temp1.[014 退院年月日],
datediff(d, convert(datetime, min(temp1.計算用手術日)), convert(datetime, temp1.[014 退院年月日]))
FROM (
select
[04_カルテ情報].*,
case when [057 手術1の点数表コード] in ('K907', 'K908', 'K914', 'K915')
or [057 手術1の点数表コード] like 'K913%'
or [057 手術1の点数表コード] like 'K920%'
then NULL else [060 手術1・手術日] end as 計算用手術日
from [04_カルテ情報]

union all select
[04_カルテ情報].*,
case when [064 手術2の点数表コード] in ('K907', 'K908', 'K914', 'K915')
or [064 手術2の点数表コード] like 'K913%'
or [064 手術2の点数表コード] like 'K920%'
then NULL else [067 手術2・手術日] end as 計算用手術日
from [04_カルテ情報]

union all select
[04_カルテ情報].*,
case when [071 手術3の点数表コード] in ('K907', 'K908', 'K914', 'K915')
or [071 手術3の点数表コード] like 'K913%'
or [071 手術3の点数表コード] like 'K920%'
then NULL else [074 手術3・手術日] end as 計算用手術日
from [04_カルテ情報]

union all select
[04_カルテ情報].*,
case when [078 手術4の点数表コード] in ('K907', 'K908', 'K914', 'K915')
or [078 手術4の点数表コード] like 'K913%'
or [078 手術4の点数表コード] like 'K920%'
then NULL else [081 手術4・手術日] end as 計算用手術日
from [04_カルテ情報]

union all select
[04_カルテ情報].*,
case when [085 手術5の点数表コード] in ('K907', 'K908', 'K914', 'K915')
or [085 手術5の点数表コード] like 'K913%'
or [085 手術5の点数表コード] like 'K920%'
then NULL else [088 手術5・手術日] end as 計算用手術日
from [04_カルテ情報]
) as temp1
GROUP BY temp1.[000 入院番号], temp1.[014 退院年月日]
ORDER BY temp1.[000 入院番号];

実際には、さらに除外対象となる病名を外すために約160行の選択条件句(WHERE句)が要り、施設コード(13施設)、年度(4年度分)による分類が入っているのだが、それでも、研究室のサーバーでは10分程度で処理できてしまう。また、パス分析など各診療行為の関係を見る場合でも、行為明細を自己結合すれば簡単にできる。したがって、DPCデータ分析の際に、上述の『指南書』を超える複雑なクエリが必要であると感じたことはない(いまのところ?)。

それにしても、『指南書』などを読んだり、上述のKさんにご教示いただいたりするたびに、まさにパズルの解法を聞くように「なるほど!」と思わせてくれて、おもしろい。しかも、『指南書』でも中級編だというのだから、データベースの世界はとても奥が深いのだ。

この本〔高野豊『rootから/へのメッセージ』〕に出会って以来、私は、データベースに対して謙虚な姿勢で臨むことを心がけるようになりました。もし自分がこの世界に退屈さを感じているとすれば、それは世界の責任ではなく、きっと自分がまだ世界の豊かさを発見することができていないからだ。この世界はきっと、私の知らない豊かな可能性を蔵しているはずだ、と。そのように態度を改めることによって初めて、私はデータベースの世界の深部へ向かって、少しずつ降りていくことができるようになったのです。(『指南書』p.315)

書籍情報


明日の医療に活かすDPCデータの分析手法と活用
藤森研司、松田晋哉
じほう
売り上げランキング: 126,908


達人に学ぶ SQL徹底指南書 (CodeZine BOOKS)
ミック
翔泳社
売り上げランキング: 19,882
このエントリーをはてなブックマークに追加

診療所(医院、クリニック)の将来患者数を予測する―1開業医当たり20%以上の減少も(2030年山形県)
―2013年12月28日

医療提供に真に必要な医師数を推計することは困難だ。厚生労働省「医師の需給に関する検討会」の医師需給推計を背景に医学部入学定員抑制が進められた結果、今日の「医師不足」の事態が引き起こされた。

昨今、再び、医学部定員増が進められているが、その流れを決定的にした「安心と希望の医療確保ビジョン具体化に関する検討会」では1.5倍という数値目標が示されている。ただし、これはあくまでOECD諸国の人口当たり医師数の単純平均値に基づくものであり、暫定的な数値に過ぎない。同中間報告書では、「その後医師需要をみながら適切に養成数を調整する必要がある」としたうえで、必要医師数について新たな推計が必要であるとの認識を示している。

そこで、わたしたちは、昨年、現在のフリーアクセス等の医療提供体制を前提として、医学部入学定員増が維持され勤務医の負担軽減を図った場合の山形県の病院勤務医の診療科別将来必要医師数を客観的に把握した(詳細は、伊藤嘉高・佐藤慎哉・山下英俊・嘉山孝正・村上正泰「山形県におけるコホートモデルを用いた診療科別将来必要病院勤務医師数の推計」)。

病院は診療科によっては医師不足が続く


その結果を見ると、2030年の県内病院勤務医は全体で3,048名(2008年比122.0%)に増加する。他方で患者数は減少し、将来医療需要に基づき過重労働状況の解消を図ると、全体で4.0%(73人分)の医師数の余裕が生まれる。しかし、全ての診療科で余裕が生まれるわけではない。現在見られる新卒医師の診療科選択の傾向が今後も続いた場合、とりわけ外科は23.7%の更なる新卒医師数の上乗せが必要であり、脳神経外科など他の外科系も10%前後の上乗せが必要になる。他方で、新卒医師の半数以上が余剰になるおそれのある診療科も見られる。

診療所の場合はどうなるか―2030年の患者数は-4.8%


もちろん、以上の結果は、さまざまな仮定に基づいており、ひとつの参考値として考えるべきものである。その仮定の一つに、勤務医の開業傾向が今後も同様に続くとしていることがある。先の論文では、「病院勤務医数に大きな影響を及ぼす開業率も現状のまま推移するとは考えづらい」として、簡単なデータを紹介しているが、ここでは、山形県における診療所(医院、クリニック)の医師数と患者数の将来推計について、その詳細な結果を示しておきたい(方法論は上記の勤務医推計と同じ)。

はじめに、傷病別の患者数の将来推計を示す(なお、ここで見ていく患者数は、調査日の入院患者数、外来患者数、調査日には受診していないが継続して通院している患者数の合計値である)。II 新生物(がん)、IX 循環器系疾患(脳血管疾患も含まれる)、XIV 尿路性器系疾患以外は患者数が減少し、全体では4.8%の減少となる。

診療所患者数推計(傷病別)

さらに、以上の傷病分類別の患者数を受診診療科別に計算し直すと下の図のようになる。ただし、本推計の元データである平成17年山形県患者調査には診療科の項目がなく、今回の推計では全国調査の傷病×主たる診療科のデータを援用している。したがって、とくに内科系、外科系の細分化された診療科に関しては精度が高くないため、注意が必要である。

診療所患者数推計(診療科別)

開業医数の将来推計―山形大学医学部新設の影響により大きく増加


開業医数(診療所医師数)については、興味深いデータが得られる。まず、2008年の勤務医/開業医の年齢別分布を見ると、次のようになる。山形大学医学部新設~定員120人時代に入学している層に当たる年齢層の医師数が多く、開業医数も多い。

2008年の勤務医/開業医数

60代以上の医師数は少ないが、これは定年退職しているためではなく、山形大学医学部が新設される以前に医学部に入学している年代に当たるからである。この点について、上記の論文では医師異動(県外流出、開業、退職等)コホートモデルを作成して検証しているが、このコホートモデルを今後の医師異動に適用すると、2030年の勤務医/開業医の年齢別分布は次のようになる。

2030年の勤務医/開業医数

やはり、(山形大学医学部新設~定員120人時代に入学している層に当たる)60、70歳代の医師数が大幅に増加する。その結果、2030年の開業医数は、2008年比で120.5%に増加し、1,029人に達する。さらに、診療科別に見ると、次のようになる。

2030年の開業医数(診療科別)

開業医1人あたりの患者数―1開業医当たりの患者数は2割強の減少


以上のように、患者数の減少と医師数の増加が見られるなかで、開業医1人あたりの患者数はどうなるのだろうか。2030年の診療所医師1人あたりの患者数をみたのが下の図である。内科群は内科系の診療科をまとめたものであるが、その患者数は100人近く減少する。

開業医1人当たり患者数の推移

上のデータを増減率で並び替えると、次のようになる。全体では、2008年の患者361,391人/医師854人=423.2人から、2030年は患者343,988人/医師1,029人=334.3人となり、2008年比で79.0%となる。

開業医1人当たり患者数の増減率

もちろん、診療報酬や政策誘導により病院の外来の縮小が進み、在宅医療が推進されていることを考えれば、2030年の開業医1人あたりの患者数がこれほどまでに減少することはないであろう。高齢の医師の割合が高まることも考えなければならない。

ただし、診療科によって以上のような患者数の減少の違いが生まれるとなれば、医師のキャリア・パスにも大きな影響を及ぼすことになる。先に見たように、病院勤務医の分析では、外科では23.7%の更なる上乗せが必要となる一方で、新卒医師の半数以上が余剰になりかねない診療科も生まれることが明らかとなっている。

したがって、今後は、現下の医療提供体制における医師不足に対応しつつ、新卒医師の診療科選択の動向に目を配り続けることが求められる。その上で、全診療科の医療需要を適切に把握し、医師のキャリア・パスも視野に入れた適切な医療提供体制ならびに医学教育体制を構築していかなければならない。
このエントリーをはてなブックマークに追加

生の固有性と「都市的なるもの」―『都市のリアル』(有斐閣)刊行
―2013年08月17日

吉原直樹・近森高明編『都市のリアル』
第8章「生と死のあいだ―都市高齢者の孤独に向き合う医療と介護」を担当した吉原直樹・近森高明編『都市のリアル』が有斐閣より刊行された。

本書は、今日の都市社会学の教科書として位置づけられている。その筋書きはこういうことだろう。「大きな物語」を失い知や生活世界が断片化されるなかで、大上段から論じる現代社会論が失効して久しい。そうして知の細分化がなされてきた。

しかし、今日の都市では、労働にしても家族にしても健康にしても、そうした専門的議論の枠組みから外れた生の「リアル」、隙間としての「リアル」が噴出している(既存の制度的枠組みから外れる人びとの増大)。

ところが、そうしたリアル(ルフェーヴルの言う「都市的なるもの」)は人を分断するとともに人をつなぎ直すポテンシャルを有しているのではないか。そうした「都市的なるもの」に焦点を当て都市のさまざまな場面を語りつなぐことで(ベンヤミン流に言えば「翻訳」することで)、新たな都市の可能性が開かれていくはずだ――

「都市的なるもの」と医療と介護


医療や介護の世界では「生の固有性」に類する言葉がよく聞かれる(「患者/利用者さん一人ひとりに向き合う」といったように)。しかし、生の固有性とは何だろうか。空間論・場所論に根ざした都市社会学の知見からは、本質的な生の固有性というものは存在しない。

ある人間の個性は、その人のもつ人、物、場所との「つながり」が(歴史的かつ空間的に)複雑に折り重なることではじめて生まれる(=創発する)ものだ。したがって、人間の自立とは、ただ一人で大地に立てることではなく、人、物、場所との十分な「つながり」に支えられて振る舞えることを指す(社会学ではこの力を「エージェンシー」と呼ぶ)。そして、ジョン・アーリにならって言えば、身体の移動、想像の移動、情報の移動(モビリティ)が新たなつながりを作り出している。

ところが、現代の都市は、無縁死の現象に代表されるように、都市高齢者を中心に、自ら「つながり」を絶ってしまう動きが見られる。これをわたしは「自発的な社会的排除」と呼ぶ(引きこもり現象もそうだが、現代の「ポスト・パノプティコン」の時代は、「つながり格差の時代」であるとともに、「正常」から外れた人間は社会から自ら隔離される時代である)。

心身に異常があるだけであれば、必要な医療や介護を提供すればよいのかもしれない。住む場所や施設がないだけであれば、サービス付きの高齢者住宅を整備すればよいのかもしれない。しかし、そうした場面に登場する都市高齢者たちは、しばしば、それだけでは解決できない問題を抱えている。すなわち、死の外部化によって成り立ってきた生産主義的な「都市」の論理、標準化=規範化(ノルマライズ)された都市生活からの乖離から生まれる失望と諦念、そして、自発的な社会的周縁化、社会的排除という問題である。

こうした都市高齢者の自発的な社会的排除に至るプロセスに対して、本書第8章では、医療と介護がその負のスパイラルを断ち切るために果たすべき役割をみている。簡単に言えば、医療にせよ介護にせよ、その役割は、心身の維持や回復はもちろんのこと、生と死の分断ではなく、その混和のなかで、都市に住まい都市に生きる人びとの人間性の維持と回復をもたらすものでなければならないのである。

■目 次

序 章 「ゆらぐ都市」から「つなぐ都市」へ

第1部 問いのなかの都市

 第1章 計画と開発のすきまから――人間不在の足跡を読む
 第2章 都市は甦るか――不安感の漂うなかで
 第3章 不安の深層から――見えない犯罪の裏側を探る
 第4章 働くものの目線――サービス産業化する都市の内側

第2部 ゆらぐ都市のかたち

 第5章 見えない家族,見える家族――イメージの変容から
 第6章 あるけど,ないコミュニティ――町内会のゆくえ
 第7章 きしむワーク――行政のはざまで
 第8章 生と死のあいだ――都市高齢者の孤独に向き合う医療と介護

第3部 つなぐ都市へ

 第9章 新しい絆のゆくえ――ソーシャル・キャピタルのいまを解く
 第10章 文化を編みなおす――夢物語から立ち上がる
 第11章 サウンドスケープ今昔――あふれる音の向こうに

第4部 都市のリアル

 終章─1 上からと下から――都市を見る漱石の目,鴎外の目
 終章─2 《都市的なるもの》の救出――ベンヤミンを補助線にルフェーヴルを読む

参考リンク



書籍情報


都市のリアル
都市のリアル
posted with amazlet at 13.08.17

有斐閣
売り上げランキング: 87,387

このエントリーをはてなブックマークに追加

自治体病院がつぶれる!?―地方公営企業会計制度見直しの影響
―2013年02月23日

平成26年度の予算決算から適用される地方公営企業会計制度の見直しが、自治体病院の経営を直撃する。そして、自治体間での病院の「統合」を視野に入れなければ、その地域での病院医療の提供そのものが危うくなりかねない事態が訪れようとしている。

自治体病院を含む地方公営企業の会計制度が46年ぶりに抜本的に見直される。地方公営企業の会計基準は昭和41年以来大きな改正がなされておらず、近年、地方公営企業会計と企業会計原則の制度上の違いが大きくなっている。そこで、企業会計制度との整合性を図り、相互の比較分析を容易にするためにも、見直しが行われることになったのである。

したがって、自治体病院についても、民間病院との経営比較が容易になり、その経営状態が「可視化」されることになる。具体的には、借入資本金の負債計上、退職給付引当金など各種引当ての義務化、さらには、いわゆる「みなし償却制度」の廃止などがなされる。見なし償却制度とは、固定資産の取得に伴い交付される補助金・負担金を取得価額から控除した額を基礎に減価償却ができる制度である。

詳細は「地方公営企業会計制度等研究会報告書」(総務省、平成21年12月24日)に詳しいが、本記事では、山形県の日本海総合病院のケースを取り上げ、その具体的影響をみる(日本海総合病院は地方独立行政法人会計基準を適用しているが、地方公営企業会計の変更点と相同するものについてみる)。

健全経営の日本海総合病院の場合


nihonkai.jpg酒田市に位置する北庄内の基幹病院・日本海総合病院
日本海総合病院(646床)は、旧山形県立日本海病院と旧酒田市立酒田病院の統合再編によって、2008年4月に設立(独法化)され、今日では、全国有数の健全経営で知られる病院である。旧会計基準で、23年度の医業収支比率は103.7%(+10.5億円)、各種負担・補助金含めた経常収支比率は105.2%と黒字経営を続けている(ちなみに、新聞報道で良く目にする自治体病院の「黒字化」とは、自治体や国からの補助金、一般会計負担金を含めた経常収支の話である―山形県立中央病院の場合、その額は30億円を超える)。

そして、新基準を取り入れた場合の23年度会計について、昨年、栗谷義樹院長と佐藤俊男事務局長(当時)に個人的にご教示頂いた内容を私なりにまとめる。

貸借対照表


まず、貸借対照表(バランスシート)に対する影響をみる。旧会計では、資産305億1,597万円、負債170億3,814万円、純資産94億2,046万円である。これに新会計基準が適用されると、(1)償却資産の取得に伴い交付された補助金・一般会計負担金等(9億4,347万円)が「長期前受金」として、純資産から負債に振替えられ、(2)退職給付引当等の引当て義務化により、40億5,737万円が負債計上されることになる(ただし、日本海病院ではすでに負債計上済み)。なお、退職給付引当金は、とくに小規模団体では一般会計等が全額負担する傾向が見られるが、その場合は、引当不要である。

この結果として、下図の通り、資本が減り、負債が大幅に増えて内容が悪化することになる。さらに、自治体病院の場合、このほかに借入資本金が負債計上されることになる(地方自治体の一般会計からの「資本提供」とみなされてきたが、経費のどの部分が税金で負担されているのかを明らかにする必要があるため負債計上されることになる)。こうして一部の自治体病院のバランスシートは、民間であれば経営破綻しかねない債務超過に陥ることが想定されるバランスシート

損益計算書


次に、損益計算書に対する影響を見る。22年度の医業収益は161億3,312万円、医業費用は150億8,463万円であり、医業収支は10億4,850万円であった。新会計基準では、これに、引当金繰入(9億6,633万円)が計上されることになる。そして、みなし償却制度の廃止により減価償却費が数億円増加する。

これらの結果、下図の通り、医業費用が10億円以上増加することになる。健全経営を続けてきた日本海総合病院ですら、収支がマイナスに転落してしまうのである(なお、会計制度に対する私の理解は入門書レベルであり、思わぬ誤りがあるかもしれない。その場合には、すべて私の責任である。ご指摘頂きたい)。
損益計算書

あくまで会計上の変更ではあるが……


以上の見直しはあくまで帳簿上のものである(追記:つまり、キャッシュフローに影響するものではない=直接、資金繰りが付かなくなることを意味しない)。しかし、これにより、会計基準が私的企業と相通じたものとなり、民間病院との経営比較が容易になる。そして、その結果、各議会からの病院経営改善の圧力が一層強まることになるだろう。一応の繰入基準が定められているとはいえ、自治体財政の悪化、規模縮小のなかで、今後もこれまで通りの繰入や補助金が続いていく保障はない

考えてみれば、この人口縮小時代に、「1自治体に1病院」(総合病院)という発想がもはや成り立たないのではないか。自治体病院の経営は、「公立病院改革ガイドライン」以降、改善がすすんでいるとはいえ、経営効率の悪さは、現場の医療者や事務系職員の努力によって対応できるレベルを超えている。これまでのように現場に押しつけるだけであれば、それこそさらなる医療崩壊を引き起こすことになりかねない。

現実論として、自治体間での病院の「統合」を視野に入れなければ、地域医療の提供そのものが危うくなる事態が訪れようとしているのである。

さらに視野を広げて考えてみると、「統合」によって病院経営の改善が進めば、非効率な病院を抱えてきた自治体の財政本体にも好影響を及ぼすことができる。つまり、それぞれの自治体が自前の病院を維持するために拠出していた繰入や補助金が減額されることで、その分を財政健全化や政策的投資に回すことができるのである。

kouritsuokitama.jpg再編によって誕生した公立置賜総合病院(520床)
とはいえ、もちろん、地域の住民が必要な医療が受けられなくなる事態は避けなければならない。自治体病院再編のモデルケースとされる山形県置賜地方の病院再編・集約化の場合、(再編前の状況と比べて)地域住民からアクセス面での不満は高まっておらず、集約化の方向性は概ね評価されている(伊藤嘉高、村上正泰、佐藤慎哉、新澤陽英、嘉山孝正「自治体病院再編に対する住民サイドからの事後検証―置賜総合病院を核とした自治体病院再編を対象にして」『日本医療・病院管理学会誌』2012; 49 (4): 27-36)。こうしたバランスの取れた再編・統合が必要である。

このように、経済最優先の姿勢は排されなければならず、自治体病院の意義は十二分に認めなければならないが(「社会民主主義の舞台としての自治体病院―伊関友伸『自治体病院の歴史』」の記事も参照されたい)、必要な限りの自治体病院の再編・統合は、医療従事者の負担軽減=持続的かつ安定的な医療提供のみならず、「地方の時代」における新たな自治体経営にとっても寄与できるものとなるだろう。
このエントリーをはてなブックマークに追加

緩和ケアの「社会化」を目指して(医学科3年研究室研修報告書)
―2012年12月28日

山形県立中央病院緩和ケア病棟山形県立中央病院・緩和ケア病棟の中庭
山形大学医学部医学科では、3年次の夏に「研究室研修」が設けられており、各学生が希望する講座で1か月間、研修することになっている。本講座では、純粋医療・医学については関知していないため、他の講座とは異なり、医療と社会のインターフェース(境界面)から、医療社会の営為を捉え返すような課題を設定している。

今年度は、3名の学生を受け入れ、村上教授の監督の下、学生たちが「緩和ケアをめぐる地域連携の現状と今後の展望」をテーマとして、普段接する機会のないさまざまな現場の方々からそれぞれの知見を複眼的に学び、政策提言を行うことを目指した。

1か月間という短い期間ではあったが、山形県内のさまざまな医療機関(県立中央病院、三友堂病院、鶴岡市立荘内病院、日本海総合病院、訪問看護ステーション・スワン、三條外科・胃腸科医院、ねもとクリニック)の方々に御協力をいただき、学生たちによって「緩和ケアの『社会化』を目指して」を副題とした報告書がまとまった。
ここでは、考察と結論の箇所を以下に紹介したい(報告書では、インタビュー調査の詳細な結果もまとめている)。

■ 提言① 在宅志向の病棟文化の醸成と看護師の評価―病棟を地域とつなぐ
病院は、在宅緩和ケアの入口としての役割を果たしているし、果たしていかなければならない。現在、緩和ケアを受ける患者の大部分は、がんと診断され多面的な苦痛を訴える人々であるが、病院はそのような人々に在宅ケアの情報を伝え、在宅ケアを受ける意志がある人々を拾い上げていかなければならない。

しかし、各病院の連携室の看護師の方々が指摘していたように、病棟ではどうしても治療優先の思考が働いてしまうために、病棟で治療を受けている患者の在宅ケアに対する意志が見落とされることがある。他方で患者側も、医療者に遠慮して自分の希望を言い出せないでいるケースも多い。したがって、県立中央病院の神谷医師が指摘しているように、患者の本音を引き出し、そして、三友堂病院の黒田看護師長が指摘しているように、患者に自立心を失わせることのない、すぐれたコミュニケーション・スキルを磨くことが必要となる。

さらに在宅の現場からは、病棟の医師や看護師に対して、実際の治療においても在宅移行という視点を持つことを強く求める声が挙がっている。つまり、在宅の意志のある患者に対して、必要な医療を取捨選択し、ADLのよい状態ですみやかに自宅に戻せるような対応を考えていく必要がある。在宅移行は、まさに在宅緩和ケアの始まりであり、非常に重要な局面である。病棟スタッフには、移行のタイミングを上手く見極めていくことが要求されている。

一方で、むやみに在宅移行を進めて「追い出す」というような形になってしまうことは、避けなければならない。在宅移行は患者の意向が絶対条件であり、家族の支えや介護サービスなど、自宅でのサポート体制の構築が不可欠である。したがって、病院側は、在宅移行後のことまでしっかりと責任をもって対処する必要があり、家族に対して支援マニュアルのようなパンフレットを作って指導することはもちろん、退院後のフォローアップや、在宅ケアが困難になった場合にはいつでも病院に戻って来れる環境を整えるなど継続的なサポートを行うことで、患者・家族の在宅ケアに対する不安感を和らげることができる。

これらの取り組みの中心にはやはり経験豊富な病棟の看護師が位置づけられるであろう。そうしたベテラン看護師のジェネラルな能力を評価するために、認定看護師や専門看護師とは異なる資格認証制度が必要である。

■ 提言② 緩和ケア病棟のさらなる整備の必要性―在宅医療との連携
病院によっては、自院の中に苦痛緩和を専門に行う緩和ケア病棟を設置して、一般病棟と連携し看取りまで行っているところもある。しかし、緩和ケア病棟のない二次医療圏もあり、病院のキャパシティーなどを考慮すると、緩和ケアを望む患者全てを病院で対応して終末期までコントロールしていくにはかなり厳しいものがあり、やはり在宅ケアの役割はますます大きくなってくると思われる。

しかし、在宅緩和ケアの実施のためには、後方ベッドの確保が不可欠である。主治医を変更させるかたちで一般病棟に入院するのは困難であるため、在宅緩和の現場からみれば、緩和ケア病棟のさらなる整備の必要性が生まれる。県立中央病院の既存の緩和ケア病棟の増床とともに、(各医療圏でも)より地域にひらかれた緩和ケア病棟の整備が必要である。

■ 提言③ 緩和ケアチームの存在の明確化―患者との水平的なコミュニケーションのために
緩和ケアチームの活動が積極的に進められているが、まだ十分ではない。とくに一般病棟では、緩和ケアのサポートが必要な患者に必ずしもチームが介入できていないケースがみられる。私たちが参加した山形県緩和医療研究会でも、各病院のがん認定看護師の方々からコミュニケーション上の悩みを多く伺った。したがって、各病院では、苦痛を抱えるがん患者がいつでも緩和ケアチームに相談できる体制を整え、そのことを患者に明示する仕組みをつくることが重要であると考える。

■ 提言④ 「かかりつけ」の診療所の役割の拡大を―在宅緩和の裾野を広げる
病院からの在宅移行によって、疼痛コントロールと病態管理の仕事は、病院内の医師から診療所のかかりつけ医に引き継がれる。在宅での病態急変時に迅速に対応するためには、やはり24時間体制が要求されるが、現実問題として24時間対応の在宅療養支援診療所(在支診)登録を行っている診療所や実質的に機能している診療所は十分に増えていない。

その理由として、夜間帯の呼び出しに応じなければならないという束縛感と、日中の通常外来時の緊急呼び出しにどのように対応したらよいかといった悩みが挙げられる。また、複雑な病態を抱える終末期のがん患者の症状コントロールに対して、医師側が不安を抱えていることも考えられる。このような問題の背景には、在宅緩和ケアを医師一人が全て担っていかなければならないという医師側の思い込みがあり、一人ですべて背負い込もうとして自ら在宅緩和ケアのハードルを上げているように思われる。

しかし、日本海総合病院の退院支援部署の高橋看護師長、訪問看護ステーションスワンの後藤所長、ねもとクリニックの根本院長がみな口をそろえて指摘していたのは、診療所の訪問看護ステーションの看護師とうまく連携を図ることで、往診・訪問診療の機会を減らし医師の負担を軽減することができることだ。さらに、地域の病院との病診連携を密に図ることで、疼痛コントロールが困難になった場合など、いつでも病院に再入院させるという選択をとることもできている。

これらの取り組みは、在宅緩和ケアにおける医師負担の問題解決につながる重要な糸口であり、その本質は言うまでもなく地域の複数の医療者と介護者による多職種連携にある。在宅移行を進めるための計画立案時にはケアマネジャーの他にも医療ソーシャルワーカーが関与し(診療所に医療ソーシャルワーカーの配置を望む病院関係者は多い)、疼痛コントロール時には、医療用麻薬投与の処方計画などに薬剤師も関わることができる。

在宅医は、このような複数の職種とうまく連携を図りながら緩和ケアチームをまとめ、指示を出す立場にあると考える。このようなスタンスで在宅緩和ケアを考えれば、根本院長が指摘しているように、多職種が分担してそれぞれの役割を果たすことで、医師個人が背負い込む負担はそれほど大きくならない。

さらに、荘内病院の渋谷看護師が訴えているように、複数の専門家が関わるチーム医療の体制は、多くのスタッフがサポートしてくれているという安心感を患者・家族に与えることにもなり、この点においても多職種連携のメリットは大きい。

したがって、在宅医療を政策的に推進するために解決すべき課題は、一般診療所と在宅医療に取り組む診療所との間にある溝の大きさである。診療報酬の過度の差別化で在支診を特別視するのではなく、根本院長がいうように、かかりつけ医の延長として在宅医療に取り組める方向で制度を整備するべきである。その意味では、24年診療報酬改定で打ち出した機能強化型の在支診では一般診療所との連携も認めており一定の評価はできるかもしれないが、算定要件の設定が厳しく、緩やかな連携を促進するものとはなっていない。

■ 提言⑤ 病院も含めた多職種連携の土壌を作る「場」の創出が重要
しかし、そうした多職種連携に根ざした在宅医療は、制度を整備したからといって一朝一夕のうちに実現するものではない。そして、異なる職種の人間が絡む多職種連携においては、コミュニケーションの取り方も問題となってくる。

そこで、三條外科胃腸科の三條医師は、iPadなどの電子端末を用いて、SNSの形式でリアルタイム型の情報交換を行う試みを進めている。そして、病診連携と医介連携のハブとしての診療所の役割を追求している。この取り組みは、問題中心型の水平的なコミュニケーションを可能にするという点で今後のモデルとなるものであると考える。また、その場合には、病病連携におけるITも含め、三條医師が指摘しているように専門的な情報管理システムが重要になり、医療情報システム監査人(MISCA)のような人材の配置が求められる。

ただし、最先端の情報インフラを年配の医師などに普及させるのはなかなか困難であり、現状、地域におけるコミュニケーションの場として最も適当だと思われるのが、根本院長らが進めている地域レベルでの多職種参加の勉強会である。複数の異なる医療関係者と介護関係者が参加して、それぞれの立場から在宅緩和ケアを見つめることのできるこのような勉強会では、顔の見える交流につながり、職種間の「壁」も取り払われ、自然と連携の枠組みも拡大していく。

そして、この勉強会には在宅医療に携わるものだけではなく、病院の医師や看護師も積極的に参加すべきである。スワンの後藤所長らも、病院の関係者こそが在宅医療の現場を知る必要があると指摘している。

こうして円滑なコミュニケーションを図りながら地域全体がチームとして在宅緩和ケアに取り組むことができれば(制度的には緩和ケアセンターの機能拡大がポイントになるだろう)、どこかに過重な負担がかかってつぶれるようなことはなく、持続可能で安定した医療とサポートとを患者・家族に対して提供していくことができるものと考える。

■ 提言⑥ 大学や行政の果たすべき役割も大きい
いかに多職種連携を上手く図ろうとしても、職種ごとに十分な人的リソースが確保されていなければ、必ずどこかにひずみが生じてしまう。荘内病院や三友堂病院では、地域移行に積極的に取り組んでいるものの、その代償としての過重労働を危惧する声が聞かれた。

緩和ケアに取り組む診療所や訪問看護ステーションの数は、その地域における在宅緩和ケアの取り組みの成否に直結する。今回の調査でも、さまざまな立場から裾野の広げることの重要性を指摘する声が挙がった。中でも、訪問看護師は、医療上のスキルのみならず、病院と診療所、診療所と在宅、さらには医療と介護の間を仲介する役割を果たしており、いわば多職種連携の潤滑油と呼べる存在である。したがって、訪問看護師の育成所の新設や地域の医療従事者や介護従事者に対する在宅緩和ケアの教育機能など、大学や行政の果たすべき役割は大きい。

他にも、医療費の問題など、各調査対象者がそれぞれの立場から指摘しているように、医療者の努力だけではなかなか改善の難しい問題が存在している。なかでも問題なのが、緊急性はないものの在宅のがん末期患者が疼痛コントロール不良になった時に、病院で疼痛コントロールを行うために病院に運ぶ際の搬送手段がないことである。

救急搬送という形をとると、救急隊の医療処置は法的義務であるため、患者は望まぬ形で医療介入を受けてしまうことになる(ちなみに、山形在宅ケア研究会でも、山形市の救命救急士の方が、在宅末期の患者で家族が主治医と連絡が取れず救急車を呼んでしまったがために、DNRのガイドラインがない以上、家族を説得してまで「心が痛む蘇生」を行わざるをえない実情が報告されていた)。しかし民間の搬送業者はほとんど存在しないため、患者の家族は大きなジレンマを抱えることとなる。そこで、民間のタクシー会社などによる搬送業務に対する政策的支援を行い、患者の家族がとれる選択肢を増やしていく必要がある。それは在宅緩和ケアを行う上での患者・家族の安心感につながり、緩和ケアのハードルを下げるという意味でも重要である。

このように、在宅緩和ケアは単に医療者だけの問題ではなく、地域行政全体を巻き込んで考えていかなければならない問題である。今回の調査では、行政に対して「在宅緩和ケアの取り組み全体について率先して引っ張って行ってくれる人がいない」と指摘する声が聴かれた。今の在宅緩和ケアの取り組みは、地域の創意工夫に頼り、バラバラに行われているのが現状である。そこにはさまざまな格差や課題が存在しており、地域ごとに住民が受けることのできる緩和ケアに大きな差が見られる。県全体でどのような緩和ケアを推進していくのか、そのビジョンを提示できる体制を構築することが必要である。

■ 結論
医療者や行政がどれだけ努力して体制を整備しても、それだけでは理想的な在宅緩和ケアを実現することは叶わない。そこには、在宅で患者を支える家族の視点が抜けているからだ。患者側からの在宅ケアに対するニーズの高まりとは裏腹に、その家族や親族の意識はまだまだ低い。どうしても在宅でサポートする側の不安は大きく、病院で最期まで看てくれることを望んでいるケースも多い。特に、最近の若い世代は死を身近に経験することが少なく、看取りに対するイメージを持つことが難しくなっている。

したがって、現状では、退院調整看護師などが個々の患者・家族に対して非常に多くの時間をかけて説明をしているのが現状であり、業務の非効率さにつながっている。もちろん、個別の患者に時間をかけることは重要であるが、在宅でのケアに対する県民の意識が高まれば、退院後のフォローアップや院内外との連携に多くの時間をかけることができるだろう。

それゆえ、患者の家族に対する社会的サポートが必要である。しかし、そうしたサポートは個々の医療者がボランタリーに行っているのが現状であり、(とくに在宅患者の)家族・介護者に対する制度的なフォローが求められる。また、学校教育の場などにおいて若い頃から人の死について考える機会を設けるとともに、地域包括ケアの推進の中で、人の死を日常生活の中に取り込む環境をつくっていくことも重要である。

在宅ケアの取り組みでは、医療従事者、介護従事者の連携ばかりに目が向けられがちであるが、自宅で最も身近に接して患者と長い時間付き添っていくのは、その家族である。そして、患者と家族の自立をサポートしていくのも医療者の役目である。しかし、一部の医療従事者、介護従事者、そして、患者・家族に過度の負担がかかる構造があってはならない。したがって、患者と家族と医療従事者・介護従事者とのつながりを強固かつ持続的なものとしていくためにも、緩和ケアに対する県民の理解と行政による支援が欠かせないのである。

このエントリーをはてなブックマークに追加

ただ生きてあることの等しさ―川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』
―2012年11月18日

川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』
自分の存在の「価値」に悩むことがある。「社会的価値」や「経済的価値」などといった一面的な価値が人間の価値そのものであるかのような錯誤が世界を覆っている。そのなかで自分の価値は相対化され、ものさしで測られるものとなり、気がつけばいたずらな富や権力や権威にすがるようになる。そして、そうした「分かりやすさ」に身を委ねることで、次第に「ただ生きてあること」の豊かさを失っていく。

川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』(医学書院、2009年)は、言葉と動きを封じられたALS(筋萎縮性側索硬化症)の母親に対する看取りの記録である。ここからは、時として「無意味な延命」と非難される人びとの生の豊かさを読み取れるが、私にとっては、逆に、自分の生の貧しさを突きつけてくる書籍でもあった。

尊厳ある死?


生の価値が「生産性の市場」によって判断されるようになるなか、「世の中は長患いの人の生を切り棄てる方向に猛スピードで走り出している」(264頁)。しかし、尊厳ある死を支えるのは、孤独な自己決定権などではなく、尊厳ある生であることに、まずは気づかされる。

母は口では死にたいと言い、ALSを患った心身のつらさは分かってほしかったのだが、死んでいくことには同意してほしくなかったのである。……自分は絶望している。こんな身体ではつらくてとても生きていられないと思う。すぐにでも泡のように消えてしまいたいが、「あなたはいなくなったほうがいい」などとは誰からも言われたくない。その瞬間に自分の尊厳は地に叩き落とされてしまうからだ。(47-8頁)

毎日の着替えもオムツの交換方法も、手や足を置く位置も、「何から何まであなたたちの言うとおりになどならないわ」という意地さえ感じられる。しかし今思えば、そうやって母は自己主張の練習をしていたのだった。……私たちにされるままになることに徹底的に抵抗を示すことで、ケアの主体の在り処を教えてくれていたのである。これも今だからこそ本当によく理解できるのだが、あのときは自分勝手ばかりいう母が許せなかったし、母のわがままとしか思えなかった。(60頁)

では、尊厳ある生(=自立した生)は何によって支えられるのか。パターナリズムに基づく一方的なケアでないことは言うまでもないが、しかし、本人の一方的な自己主張を聞き入れることでもない。尊厳ある生とは、人やモノとの関係の双対性が担保されていること(生の連環のなかの生)にほかならないと私は思う。川口は次のように指摘する。

本人に植え付けられてきた尊厳意識を塗り替えてもらい、生活上の優先順位を入れ替え、合理的で効率的な生活を望むようになったときに、初めて患者は紙オムツをはじめとする介護用品や医療機器の真価に目覚めていくのである。……ALSの人はみずからの身体をどうしたら健康で安全に維持できるかを学び直し、主体的に介護者を使いこなして初めて地域で暮らせるようになるが、障害者運動の活動家たちはこのようなことをこそ「自立」と呼んできたのである。なんでも自分が一人でできることを「自立」と呼ぶ健常者の定義とは180度異なる解釈だ。(128頁)

ALSの病は社会の病だ


やがてTLS(Totally Locked-in State=外眼運動系をふくめて臨床的に随意運動のすべてが麻痺してコミュニケーションがとれなくなるとされる状態)に至った母に対して、川口は「蘭の花を育てるように植物的な生を見守る」という表現を使い、その関係の双対性は極致に達する。

「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共存することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。……脳死とか植物状態と言われる人の幸福も認めないわけにはいかなくなってしまった。……ここからは簡単だった。患者を一方的に哀れむのをやめて、ただ一緒にいられることを喜び、その魂の器である身体を温室に見立てて、蘭の花を育てるように大事に守ればよいのである。(200頁)

そして、川口は、毛細血管の雄弁さを語り、こう訴える――「『ただ寝かされているだけ』『天井を見ているだけ』と言われる人の多くは、無言でも、常に言いたいこと、伝えたいことで身体が満たされている。ただ、そばにいてそれを逐一、読み取る人がいないだけなのだ」(186頁)。

こう見てくると、「健常人」もまた、その生の尊厳を自ら置き去りにしていることに気づかされる。ひとつやふたつの価値で測ることができるほど生は単純なものではないのに、そうした単純な価値を内面化して、生を貶めている。したがって、「非健常人」の尊厳を取り戻すことは「健常人」の尊厳を取り戻すことでもある。ALSの病は社会の病なのだ。

今回の書籍


逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズ ケアをひらく)
川口 有美子
医学書院
売り上げランキング: 12,592

このエントリーをはてなブックマークに追加

Template Designed by DW99

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。