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看護学生に社会学を学ぶ意義を伝える
―2016年06月10日

『〈いま〉を生きる人のための社会学講義ノート』表紙
いくつかの学校で社会学の講義を担当している。本務校の医学科の学生に接するときとは異なる(良い意味での)「刺激」が得られる貴重な機会である。昨年度までは、穴埋め式のスライド資料を毎回、配布していたが、印刷の質がいまいちであること、保管・保存のしやすさを考えて、今年度から冊子版にすることにした。

冊子にするとコストがかかると思われるかもしれない。しかし、一度に数百部発注すれば、毎回のコピー費用(+手間)とたいして変わらず、きれいに仕上がる。もちろん、PDFデータ入稿が前提にはなる。

また、通常、教育機関における著作物の複製・配付は著作権保護の例外として認められているが(著作権法第35条)、冊子体にして配布する場合には、認められない。私の講義スライドには、ドラえもんのコマが不断に登場するが、それは削除して、前後のコマも載せたものを資料として配付することにした。

こうして、『〈いま〉を生きる人のための社会学講義ノート』(170ページ)が完成した。せっかく冊子にしたので、「はじめに(まえがき)」を書くことにした。とりわけ、とある看護学校のごく一部の学生から「どうして看護に関係ないことを学ぶ必要があるのかわからない」という声があったからだ。とはいえ、そうした声を上げるような学生に対して、「はじめに」の内容は難しく、ミスマッチである、と思い至った。

そこで、「はじめに」の文章を衆目にさらし、恥をかくことで、第二版の改善につなげたい。

「はじめに」


社会学とドラえもん
わたしたちは、皆、さまざまな悩みを抱えながら生きています――身近な人間関係、自分の容姿、自分の性格、自分の将来、お金、家族、住まい……。社会学が教えてくれるのは、こうした日々の悩みをもたらす問題は、たとえ「生まれつき」もった心身の特徴に対することであったとしても――たとえば容姿の問題――、必ずしも「自然なこと」ではないことです。

社会学では、「わたし」の悩み(さらには、「わたし」という自己意識)は、自然なものではなく、「社会的」なつながり(仲間集団、家族、地域、学校、職場、国家、インターネットなど―さらには、モノとのつながりも含まれます)によって作り出されていると考えます。そして、多くの人が同じ悩みを抱くとき、それは「社会問題」になります。つまり、社会学は、「なぜ」わたしたちが悩んでしまうのか、なぜ社会問題が生まれるのかを考えさせてくれる学問なのです。

社会学を学び、「自己」がいかに社会的なつながりによって作り出されているのかを知ることで、自分という存在、社会という存在が当たり前のもの(=仕方のないもの)ではなくなります。そして、新たな「自己」と「社会」を不断に作り出していくための知的な力を手にすることができるようになるのです。

講義の方法


この社会学という学問について、これから「社会人」として働く人に向けて基礎的な講義を行うために、この「講義ノート」を作成しました。目次を見てもらえば分かるように、この講義では、身近な社会問題を取り上げ、それぞれのテーマのなかで、「自己」と「社会」(さらには「自然」)の関係を見ていきます。そして、そうした関係を、いつまでも、どこまでも、考え続け、そして、新たに築き上げ続けていくための知的基盤を形成することを目指します。言い換えれば、小難しい学説や理論からではなく、身近な悩みや社会問題から出発することで、社会学の学問的基礎(社会学的想像力)を着実に身につけてもらうことを目指します。

実際の講義は、本書と同内容のスライドを映しながら、進めていきます。本書は、大切なところが穴埋め形式になっているので、講義のスライドを見ながら、穴埋めをしてください。ただし、穴埋めをするだけでは、後で見返したときにスライドの内容を理解することは困難です。後で見返したときに内容が把握できるよう、積極的にメモを取ってください。その意味で、本書はあくまで「ノート」なのです。また、当日の講義スライドは当日中に筆者のウェブサイトにアップしますので、講義中はメモを取ることに専念し、穴埋めは復習時に行っても構いません。

社会科と社会学の違い


社会学は、高校までで学習する「社会科」とは異なります。「社会」の授業が、世の中の常識を教え込むものであるとすれば、社会学の授業の目的は、いかにして、そうした常識が作られてきたのかを学ぶことで、そうした常識に囚われることなく、一人ひとりにより良い人間関係(社会的なつながり)を作り出していく姿勢を身につけてもらうことにあります。

おそらく、最初のうちは、とまどうことになると思います。実際、講義の内容は易しくありません。しかし、ほとんどすべての学生は、自分なりに社会学を学ぶことの意義を見出してくれています。ここで、過去に私の講義を受けてくれた看護学生たちが寄せてくれた意見を見てみましょう。

社会学とは、今まで常識だと思っていたことが、必ずしも「正しいこと」ではないということを学ぶ学問である。看護師は、病気や障害により常識(「普通」)とされている行動が取れない人たちに寄り添っていく職業である。慢性的な病気や障害などで、「この人は普通ではない」というレッテルが貼られてしまうと、そのレッテルを剥がすことは難しく、自分でもそのレッテルを受け入れてしまいかねない。その結果、患者は、社会的弱者という立場に置かれてしまう。

「普通」の立場に立って、患者の「異常」を治すことももちろん必要なことだが(とりわけ急性の疾患の場合には)、すべてがそれで解決するのではない。そこで、社会学を学ぶことで、自分の常識という考えを取り払い、患者の置かれている社会的状況を見つめ直すきっかけになる。そして、普通であることを疑い、「普通であることが正しい」という思い込みを崩していかなければならない。このように「普通」や「常識」に対抗するために、わたしたちは社会学を学ぶ必要がある。

社会学を学ぶことの意義は、偏見やステレオタイプにとらわれたりせずに、常にものごとの本質(どのような人や物との関係にとって成り立っているのか)を見極めることにある。そこで必要とされるのは、個人のプライベートな問題を社会のパブリックな問題とつなげて、統一的に把握する能力である。一人の人間の生活を理解するためには、その人間を取り巻く社会の歴史を理解しなければならない。社会学とは、プライベートとパブリックをつなぐための知識を得るために、さまざまな社会的問題(ジェンダー、家族、都市……)を取り上げ、さまざまな角度から考えるための学問であり、社会を理解することで、一人の人間を理解するための学問である。

看護師として大勢の患者と接する際、患者一人ひとりを見なければならないと言われる。しかし、患者一人ひとりを見るだけでは、患者のことは理解できない。社会に目を向けて、その患者たちはどういった社会で生きているのか(つまりは、自分たちはどういった社会で生きているのか)を観察する必要があるということだ。

病院に来る人は、心身の疾患を抱えた人であり、社会的弱者として扱われることも少なくない。実際に、わたしは、学校のなかで、「病気」という理由でいじめられる人、差別を受ける人、自分が周りと違うことに苦しむ人を見てきた。しかし、「普通でないから差別される」のではなく、誰もが「普通であろうとする」から、スケープゴートなどのかたちで差別が生まれるのである。私たちが「普通」とする日常生活は、差別される人たちの上に成り立っているのだ。差別を無くすためには(とくに治らない病気に苦しむ患者に生きる勇気をもってもらうためには)、普通であろうとする私たちが変わらなければならない。このように、目の前の患者の個人的な問題を解決しようとするだけでなく、自己や社会の改善にも目を向ける態度を養うために、私たちは社会学を学ばなければならない。

社会学に唯一の正解はありません(唯一の正解とは、現実にある多様なつながりを切り捨てることで得られるものにすぎません)。したがって、上記の意見が「唯一の正解」ではありません。とはいえ、「何でも正解」というわけでもありません(「何でも正解」と主張するポストモダン社会学もありますが、私はその立場を取っていません)。そして、「唯一の正解」を疑うとともに、「唯一の正解がない」ことも疑ってください。つまりは、自分なりの答えを求め続け、何らかの答えを出し、そして、常に自分の声に耳を傾け、他者の声に耳を傾け、自分なりの答えに対する責任をとっていく――そうした人生を送るための胆力を学生生活でぜひとも養ってほしいと思います。そして、そのための土台を本講義で築いてくれることを願っています。
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看護学校における社会学書評課題(2015年度、その1)
―2015年11月03日

今年度から、山形市内の看護学校2校で「社会学」の講義を担当している。うち1校は前期開講であり、夏休みの課題として社会学に関する書評課題を課した。提出は任意(自由)であったが、8割もの学生が提出してくれた。

この書評課題の狙いは、論理的思考能力を鍛え、自らの考えや思いを相対化する(=絶対視しない)姿勢を身につけることにある。具体的には、はじめに著者の主張を要約してもらう。次に、著者の主張を支える主な論点を2、3取り上げる。そして、それらの論点に対する論理的な反論ないし支持を行う。そして、最後に、著者の主張に対するあなたの最終的な意見をまとめるという形式で書いてもらった。

どの書籍を取り上げるのかは学生の自由であり、(社会学専攻の学生ではないので)新書などの手軽な本で良いとした。そこで、学生の関心・志向を確認するためにも、取り上げられた書籍を分野別の一覧にまとめておきたい。

分類の明確さには限界があるが、結果を見ると、やはり、医療・看護・介護関係が最も多く(13人)、コミュニケーション(10人)、組織・労働(7人)と続き、将来の職業生活に関係するテーマが上位を占めた。経済格差・貧困、メディアは6人。子ども・教育、都市・地域は5人、ジェンダー・家族は4人、グローバル化、自由・権力は3人などであった。

1. 医療・看護・介護(13人、12冊)


弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)
岡田 美智男
医学書院
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ケアを問いなおす―「深層の時間」と高齢化社会 (ちくま新書)
広井 良典
筑摩書房
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障害者とスポーツ (岩波新書)
高橋 明
岩波書店
売り上げランキング: 25,953


「死に方」格差社会 満足できる死を迎えるためには (SB新書)
富家 孝
SBクリエイティブ
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孤独死のリアル (講談社現代新書)
結城 康博
講談社
売り上げランキング: 122,195


在宅介護――「自分で選ぶ」視点から (岩波新書)
結城 康博
岩波書店
売り上げランキング: 22,674


ひとり誰にも看取られず 激増する孤独死とその防止策
NHKスペシャル取材班&佐々木とく子
CCCメディアハウス
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日本人の死に時―そんなに長生きしたいですか (幻冬舎新書)
久坂部 羊
幻冬舎
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つくられる病: 過剰医療社会と「正常病」 (ちくま新書)
井上 芳保
筑摩書房
売り上げランキング: 311,124


サラダ油をやめれば認知症にならない (SB新書)
山嶋 哲盛
SBクリエイティブ
売り上げランキング: 33,522


2. コミュニケーション(10人、9冊)


ジンメル・つながりの哲学 (NHKブックス)
菅野 仁
NHK出版
売り上げランキング: 75,294


私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)
平野 啓一郎
講談社
売り上げランキング: 5,387


コミュニケーション力 (岩波新書)
齋藤 孝
岩波書店
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コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)
押井 守
幻冬舎
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「おもしろい人」の会話の公式 気のきいた一言がパッと出てくる!
吉田 照幸
SBクリエイティブ
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他人を見下す若者たち (講談社現代新書)
速水 敏彦
講談社
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斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)
太宰 治
文藝春秋
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こころ 坊っちゃん (文春文庫―現代日本文学館)
夏目 漱石
文藝春秋
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3. 組織・労働(7人、7冊)


チームの力: 構造構成主義による”新”組織論 (ちくま新書)
西條 剛央
筑摩書房
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タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)
中根 千枝
講談社
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マクドナルド化の世界―そのテーマは何か?
ジョージ リッツア George Ritzer 正岡 寛司
早稲田大学出版部
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人はなぜ集団になると怠けるのか - 「社会的手抜き」の心理学 (中公新書)
釘原 直樹
中央公論新社
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仕事は楽しいかね?
仕事は楽しいかね?
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デイル ドーテン
きこ書房
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4. 経済格差・貧困(6冊)


新平等社会―「希望格差」を超えて (文春文庫)
山田 昌弘
文藝春秋
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世代間格差: 人口減少社会を問いなおす (ちくま新書)
加藤 久和
筑摩書房
売り上げランキング: 31,367


現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)
岩田 正美
筑摩書房
売り上げランキング: 87,722


シングルマザーの貧困 (光文社新書)
水無田 気流
光文社 (2014-11-13)
売り上げランキング: 40,966


野心のすすめ (講談社現代新書)
林 真理子
講談社
売り上げランキング: 1,511


5. メディア(6冊)


メディアと日本人――変わりゆく日常 (岩波新書)
橋元 良明
岩波書店
売り上げランキング: 85,469


僕がメディアで伝えたいこと (講談社現代新書)
堀 潤
講談社
売り上げランキング: 72,175


考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人 (中公新書 (1805))
正高 信男
中央公論新社
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なぜ、メールは人を感情的にするのか―Eメールの心理学 (Life & Business series)
小林 正幸
ダイヤモンド社
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メディアはどこまで進化するか (サイエンス・フォーカス)
ジョン ダリーン
三田出版会
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TV 魔法のメディア (ちくま新書)
桜井 哲夫
筑摩書房
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6. 子ども・教育(5冊)


〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活
フィリップ・アリエス
みすず書房
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子どもの貧困II――解決策を考える (岩波新書)
阿部 彩
岩波書店
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なぜ若者は保守化するのか-反転する現実と願望
山田 昌弘
東洋経済新報社
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ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所 (ちくま新書)
青砥 恭
筑摩書房
売り上げランキング: 111,728


学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)
福澤 諭吉
筑摩書房
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7. 地域・都市(5人、4冊)


都市のリアル
都市のリアル
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有斐閣
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郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)
若林 幹夫
筑摩書房
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8. ジェンダー・家族(4冊)




関係する女 所有する男 (講談社現代新書)
斎藤 環
講談社
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家族を生きる: 違いを乗り越えるコミュニケーション
平木 典子 柏木 惠子
東京大学出版会
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学校をジェンダー・フリーに
亀田 温子 舘 かおる
明石書店
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9. グローバル化・国際問題(3冊)


戦争の条件 (集英社新書)
藤原 帰一
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世界を戦争に導くグローバリズム (集英社新書)
中野 剛志
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児童労働―廃絶にとりくむ国際社会

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10. 自由と権力(3人、2冊)


自由とは何か (講談社現代新書)
佐伯 啓思
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排除と差別の社会学 (有斐閣選書)

有斐閣
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概論(2冊)


違和感から始まる社会学 日常性のフィールドワークへの招待 (光文社新書)
好井 裕明
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面白くて眠れなくなる社会学
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災害支援NPOと地域コミュニティの連携―『東日本大震災と被災・避難の生活記録』刊行
―2015年03月11日

『東日本大震災と被災・避難の生活記録』表紙
東日本大震災から4年が経った今日、『東日本大震災と被災・避難の生活記録』(吉原直樹・仁平義明・松本行真編、六花出版)が刊行された(パンフレット)。

私は、山形をリードする災害支援NPOの代表である千川原公彦さん(twitter, facebook)と、「災害支援NPOと地域コミュニティ―越境する災害文化と鍵を握る平時からの協働」と題した一章を寄せている。以下、簡単に紹介したい。

(ちなみに、山形県は被災者の方を最も多く受け入れるとともに、本学医学部・附属病院では被災地に対する全国医学部からの中長期的な医療支援(医師派遣等)を調整する被災者健康支援連絡協議会の事務局を担っている。)

東日本大震災の発災後には、数多くのボランティア・NPOが全国各地から被災地に向かった。その数は、各社会福祉協議会が把握しているだけでも、被災後2か月間で30万人、被災後約1年間で100万人近くに達した。ただし、阪神大震災を経験した災害NPO関係者たちの実感では、この人数はもっと増えて然るべきであったという。

その原因の一つとして指摘されるのが、「迷惑ボランティア」論の流布によるボランティア自粛とともに、その背景をなしてもいる被災地の「受援力」の問題である。

そこで、私たちの章では、はじめに、全国から集まったボランティアの主たる引き受け手となった被災地の社会福祉協議会(社協)の性格をその歴史的経緯を踏まえて確認した上で、主に今日までの千川原さんの活動をベースに、私のボランティアの経験と調査も踏まえ、東日本大震災以後に社協(広くは地域コミュニティ)とNPOの連携がどのようにして行われたのか/行われなかったのかを検討した。

震災時における災害支援NPOと社会福祉協議会の連携


震災直後の被災地域の社協や行政は「どんな人が来るかわからない」「ボランティアに何ができるのか」「ボランティア、NPOは混乱の元」という認識が支配的であった。自らもまた被災者であり、人手不足やライフラインの未復旧、危険区域の存在などの理由から、多くのボランティアが入ってきてもケアできない、マネジメントできないといった理由から受け入れを拒否する地域が多く見られた。

概略だけ示せば、そうした行政や社協は、ボランティアを一律に扱ってしまい、災害支援に関する専門知識を有さないボランティアと専門知識を有するNPO等を区別する視点を持っていなかった。実際、阪神大震災でも、一般のボランティアと経験者が区別されず入り乱れたために大混乱が起きたのだが、そのときの経験が「ボランティア迷惑論」という誤ったかたちで継承されてしまったのである。

したがって、本来であれば、被災直後は、ボランティア・コーディネートや避難所運営に関する専門知識と実地経験を有するNPOのみ受け入れ、協働してボランティアセンターの体制作りを速やかに行い、その後に一般のボランティアを受け入れるという態勢をとる必要があったのではないだろうか。

ただし、社協とNPOの連携がなされなかったことについては、NPOやボランティアの側にも問題があったことも見落としてはならない。被災者の生活に土足で入り込むボランティアの存在は言うまでも無く、とりわけ被災後一か月は、被災地域に対して上から目線で地域の取り組みを否定して、身勝手なアドバイスや提案だけをして帰ってしまう団体も見られた。

さらに、NPOによる独自支援がはらむ一時性と過剰性の問題(被災者に対して安請け合いにより過剰の期待を抱かせ、自立性までも削ぐ)を考えると、NPOと地域コミュニティとの適切な関係を構築するために、社協のような継続的な中間支援組織が介在することが重要なのである。

平時からの連携と越境する災害文化


したがって、信頼の置けるNPOをどのように見極めるのかがポイントであり、そのために、平時からのNPOとの連携が重要になってくる。続く第2節では、震災時における地域とNPOの連携のために必要な平時からの連携について検討している(NPOの関与による防災福祉マップ作成、要援護者支援、避難所生活準備)。

ここまでは、災害に対する専門知識を有するNPOの活用という視点から論を進めているが、考えてみれば、専門知はNPOの専権事項ではない。被災地の人びともまた、地域に根ざした当事者としての固有の知を形成している。千川原さんが支援に入っている宮城県塩竃市寒風沢島では、長期的な復興支援によって山形県内の水害地域との地域を越えた人間関係が醸成されている。

こうしたありようは、それぞれに災害文化を有する地域同士が(時としてNPOが媒介して)広域的につながり、一方の地域が被災した時には他方の地域が支援に入るという相互支援協定を結ぶという姿の萌芽となるかもしれない。実際に、山形県では、県の事業として防災アドバイザー育成事業に取りかかり、地域内にリーダーを育てる取り組みも始めている。

もちろん、東日本大震災時には、社協同士の連携も広くなされていたし、震災対応が進むなかで、被災地内外のボランティアセンター同士の連携も見られるようになっていった。しかし、被災当初から機動的な対応を見せたのは、震災以前から社協同士の個別的関係が築かれていた社協同士であった

そして、物理的な支援はもとより、支援者側の社協が自らの地域のNPOやボランティアの特性を判断することができたために、そうしたNPOやボランティアを一律的に門前払いにすることなく、有効に連携し、効果的なボランティアセンターと避難所の運営をすることができたのである。

いずれにせよ、こうした持続的かつ越境的な支援/受援関係こそが行政、社協、NPO、コミュニティといったアクターの違いを超えて折り重なり合うことで、さまざまな垣根を越えた人と知のネットワークが生まれる。そして、実際に、東日本大震災では、持続的かつ越境的な支援/受援関係がさまざまなかたちで生まれている。

わたしたちは、真の復興(ポジティブな未来)のためにも、東日本大震災の悲痛な経験に根ざした災害の知をひとつの地域にとどまらせてしまうことなく、大きな集合的記憶として受け継いでいかなければならない。

目次


■ 第Ⅰ部 復興とまちづくり
復興とまちづくり(吉原直樹)
東日本大震災と東北圏広域地方計画の見直し(野々山和宏)
終わりなき「中間」のゆくえ
 ―中間貯蔵施設をめぐる人びと(吉原直樹)
建設業の公共性と地域性
 ―東日本大震災復興事業調査の中間報告(千葉昭彦)
震災からの商業地の復興
 ―田老地区仮設商店街・たろちゃんハウスを事例として(岩動志乃夫)
震災遺構の保存と防災教育拠点の形成(高橋雅也)
災害記憶とその継承のための仕組みに関する考察
 ―東日本大震災の記憶継承に向けて(金城敬太)
震災まちづくりにおける官民連携の課題
 ―福島県いわき市平豊間地区を事例に(磯崎匡・ 松本行真)
東日本大震災復興に向けた組織の現状とその類型
 ―いわき市被災沿岸部豊間 ・ 薄磯 ・ 四倉地区を事例に(菅野瑛大・ 松本行真)

■ 第Ⅱ部 コミュニティ・ネットワーク・ボランテ ィア
災害の避難空間を想像するフィールドワーク
 ―内部者として、 外部者として(小田隆史)
災害支援NPOと地域コミュニティ
 ―越境する災害文化と鍵を握る平時からの協働(伊藤嘉高・ 千川原公彦)
顕在化した都心のディバイド
 ―仙台市中心部町内会と避難所の関わりから(菱山宏輔)
災害対応におけるイノベーションと弱い紐帯
 ―仙台市の官民協働型の仮設住宅入居者支援の成立と展開 (菅野拓)
長期避難者コミュニティとリーダーの諸相
 ―福島県双葉郡楢葉町 ・ 富岡町を事例に(松本行真)
沿岸被災地における 「安全・安心」 の社会実装に向けた課題
 ―福島県いわき市平豊間地区を事例に(山田修司・ 松本行真)
自主防災組織と消防団との連携のあり方
 ―宮城県東名地区の事例(後藤一蔵)
地域防災における学校施設の拠点性
 ―釜石市唐丹地区を事例として(竹内裕希子・ 須田雄太・ ショウ ラジブ)
原発事故避難者による広域自治会の形成と実態
 ―福島県双葉郡富岡町を事例に(松本行真)
コミュニティ・オン・ザ・ムーブ  ―破局を越えて(吉原直樹)

■ 第Ⅲ部 被災後の生活と情報
いわき市 へ避難する原発避難者の生活と意識(川副早央里・ 浦野正樹)
福島第一原子力発電所事故による避難者の生活と選択的移動
 ―人的資本論にもとづく 「大熊町復興計画町民ア ンケート」 の分析(磯田弦)
原発災害避難者の食生活のいま(佐藤真理子)
学校での災害発生時における避難や避難所対応について
 ―東日本大震災発生時の豊間小 ・ 中学校等の事例から(瀬谷貢一)
大学の防災における安否確認に関する考察
 ―首都直下地震に対して東日本大震災からどのような教訓を得るのか(地引泰人)
福島第一原子力発電所事故後の風評被害と心理的 「般化被害」
 ― 「絆」はほんとうに強まったか(仁平義明)
放射能は 「地元」 にどのように伝えられたのか
 ―自治体による情報発信と報道に注目して考える(関根良平)
東日本大震災後の仙台市の病院 ・ 診療所に関する支障と情報ニーズについての分析(地引泰人 ・ 大原美保・ 関谷直也・ 田中淳)
原発災害をめぐる大学生の態度(本多明生)

文献情報


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偶然を必然にする―島岡要『研究者のための思考法10のヒント』
―2014年12月31日

『研究者のための思考法10のヒント』表紙
マカオから山形大学に赴任して5年が経った。大学院では都市社会学(地域社会学)を専攻していたのが、山形では医療という新たな分野に身を置くことになり、言ってみれば学部生からやり直すことになった。いくつもの「偶然」の重なりと人との出会いによって山形大学医学部の採用面接にたどり着いたのだが、その際、嘉山孝正医学部長(当時)から「医療と社会をつなぐ新たな開かれた学問知が求められている」との視座を伺い、すっかり感化されてしまったからだ。

とはいえ、これまでのところ、社会学に対しても医療政策学に対しても、何にでも手を出してしまう性向があり、多くの研究は「広く浅く」にとどまり、悩みながらの日々が続いている。そうしたなかで、島岡要先生(三重大学医学系研究科分子病態学講座教授)から、『研究者のための思考法10のヒント―知的しなやかさで人生の壁を乗り越える』(羊土社、2014年)をご恵送頂いた。グローバル化の時代精神を反映した複雑性科学の成果などをベースにした本書は、これまでの自分の研究姿勢を正してくれるとともに、エールを送っていただけるものであった(グローバル化と複雑性科学の関係については、「グローバルな場所の政治学に向けて―ジョン・アーリ『グローバルな複雑性』刊行」の記事も参照されたい)。

天職へのプロセスは基本的に受け身でしかありえない


島岡教授は「天職へのプロセスは基本的に受け身でしかありえない」との洞察に基づき、「自分のやりたいことを明確にし、人生目標を具体的に立てて、その目標達成のためにひたすら努力すれば人生はうまくいく」(p.16)というアドバイスを虚構とみなす。とりわけ不確実性の高まる今日においては、周囲の状況の変化に応じて、自らを柔軟に変化・修正させる知的柔軟性こそが重要であるからだ。とはいえ、「最終的にはうまくいかないにせよ、まずプロジェクトが第一歩を踏み出すために必要」(p.96)であるために、最初に計画を立てることはかならずしも無意味なものではない。

したがって、「短期的な意図的戦略で第一歩を踏み出し、そこで出会ったリソースに触発された創発的戦略を取り入れ、戦略全体(つまり意図的戦略と創発的戦略)を修正・更新して、進んでいくという生き方」(p.17-8)が提唱される。そして、創発をもたらす偶然の機会を得るために、流動性の高い場所に身を置くことが効果的であるという。

とりわけ成熟社会の場合、イノベーションはフレーム(ものの見方)を変えることでもたらされるものであるが、1つの専門分野からの同一のフレームワークで知識を深めるconvergent(収束的)な知的活動だけでは、既存のフレーム内の狭い争いに終始してしまうきらいがある。イノベーションを起こすための創造的アイデアには、自分の専門以外の分野の知識にも理解の幅を広げるdivergent(発散的)な情報収集こそが必要なのだ(p.78)。

「スラッシュのある人生」―でも、確たる専門性が前提


ただし、それは、「広く浅く」の「ゼネラリスト」になることではない。むしろ、テクノロジーの進化とグローバル化の進展により、より深い知識と専門性をもったスペシャリストやエキスパートが必要とされるようになっている(リンダ・グラットン『ワークシフト』)。他方で、多くの専門性(とりわけ「お手軽資格」)は短時間のうちにコモディティ化される運命にもある。したがって、第1の専門性をつけ仕事をしていくなかで、次の第2、第3の専門性を身に着けることが必要になってくる。これを島岡教授は「スラッシュのある人生」(p.115)と呼ぶ(「医師/作家/○○」のように)。

とはいえ、既存のフレームの外側に出ることは、大きなストレスをもたらす。とはいえストレス・フリーも幻想に過ぎない(人びとを脆弱にするだけだ)。そこで、島岡教授は、タレブの『ブラック・スワン』を援用して、ストレスに抗するのではなく、ストレスを利用してより強くなり、より大きなストレスを許容できるようになる「抗脆弱性」(アンチ・フラジャリティ)こそが、真の安定(福岡伸一流にいえば『動的平衡』←正確には動的非平衡であろう)をもたらすことを指摘する。

カオスのなかで生まれる秩序こそが成長をもたらす。そして、そのための抗脆弱性は、試行錯誤(tinkering)を繰り返すことのできる「バーベル型のキャリア」(ローリスク・ローリターンの仕事とハイリスク・ハイリターンの仕事を片手ずつ持つ)によって創発的機会や人脈が開拓されるなかで形成されるという(第7章)。

つまりは、第1の専門性が中途半端なままで何にでも手を出す浮気性では、おそらく実を結ぶことはない(ちなみに、ひとつの専門性を身に着けるのには1万時間=1日3時間で約10年のトレーニングが必要であるとされている)。(ローリスク・ローリターンの)確たる専門性を身に着けたうえでの創発的態度こそが、価値のある研究成果を生み出すのだ! ただし、確たる専門性は必ずしも確たる制度学問であるとは限らないはずだ。

天職とはいくつもの偶然の結果(振り返ってみれば奇跡的な出会いやタイミングに思え、天から与えられるように感じることも多い)、自分の内側ではなく外側から与えられた機会に自分の内面が反応することなのです。……待てずに、自分から間違ったところに探しに行くことから苦しみが生まれるのです。(p.16)

目次


はじめに
1. 好きなことをする―天職に出会えなくても、仕事は充実する
2. 研究者と英語―日本人研究者はなぜ英語を勉強しなければならないのか
3. 研究者の幸福学―研究者も幸せになりたいのです
4. イノベーションについて知っておくべきこと―Innovation =「技術革新」ではない
5. 知的しなやかさ―結果を出すリーダーはみな軸がブレている
6. 研究者のあたらしい働き方―///スラッシュのあるキャリア
7. 抗脆弱性(アンチフラジャイル)とは―想定外の衝撃「ブラックスワン」に備える
8. 賢い選択をするには―幸せな選択と不幸な選択を分つもの
9. 創造的な仕事をするために―社会に創造的価値を提供する
10. リベラルアーツとしての論理的思考法―英語プロポーザルライティングで構想力を育てる
11. 読書術と毒書対策―無理せず優位性を構築する
12. 知的生産のための健康術―研究ができる人はなぜ筋トレをするのか…
あとがき

関連リンク



書誌情報


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グローバルな場所の政治学に向けて―ジョン・アーリ『グローバルな複雑性』刊行
―2014年04月08日

『グローバルな複雑性』表紙

ジョン・アーリ『グローバルな複雑性』Global Complexity)が法政大学出版局より刊行された(吉原直樹監訳、伊藤嘉高・板倉有紀訳)。全7章のうち、はしがき、第2~7章を担当している。20世紀末以降のグローバル化の動きを「単純化」して批判/擁護するのではなく、その複雑な「生」のダイナミズムをつかみ取る方法論を探究した書である。

翻訳自体は、私が山形大学に赴任する前の仕事であり、最終的な訳稿には吉原先生の手が入っている。私としては読みやすく訳したつもりだが、そもそもの原文が難解であるため、ここで、ひとつの読み筋を提示してみたい。

Amazon.comの原書レビューでは、好意的なものが多い一方で、「600ページかけるべき内容を150ページで要約したような感じ。そして、この150ページはこれまで読んだなかで最もきつい部類に当たる」とも評されている。)

「グローバル化論」批判


本作でアーリは、従来の思考様式に囚われた「グローバル化論」を批判し、複雑性のメタファーを用いて、脱組織資本主義の「システミックで動的な性格の委細」(p.7)を明らかにしようとしている。

「グローバル化」について論じることで、既存の社会学の論点は変容することになる。たとえば、かたや社会構造、かたやエージェンシーのどちらが相対的に重要か、といった論点……、人間主体と物理的客体という強固な二分法はもちろん、物理科学と社会科学とのあいだの強固な二分法もまた融解することになる。……また、グローバルなるものの研究を、それとは無関係に進みうる既存の社会学的な分析に「付け足す」ことのできる余分な次元や領分に過ぎないと見なすべきではない。「社会学」はもはや、所与の境界をもった「組織的な」資本主義社会の研究に焦点を当てるような、一貫性を有した一定の言説体系として自らを維持することはできなくなっている。社会学は不可逆(イリバーシブル)に変わりゆくものなのだ。(5-6頁)

アーリによれば、グローバル化を肯定する者も否定する者も、その多くは「領域」(リージョン)のメタファーに囚われている。つまり、「国民社会の境界を侵食するボーダレスなグローバル化」といったように、グローバル化対国民社会といった構図を描き、空間的、地理的制約を線形的に乗り越える普遍的なグローバル化を称揚したり、逆に批判したりしているのである。

ただし、ある面において、その種の分析は正当なものであろう(たとえば、非関税障壁の撤廃までをも求めようとするTPPに対する批判)。しかし、多くの局面において、グローバル化は「一面的」なものではなく、さらに言えば、グローバルなものとナショナルなものは共振(共同構成)し合う関係にある(たとえば、グローバル化のなかでナショナルな文化がブランディングされ強化されるといったように)。こうした現象を「領域」のメタファーから読み解くことはできない。

本書は、多くのグローバル化分析がグローバルな創発特性をあまりに一元的で、そして、あまりに強力なものとして扱ってしまっているとの考えに立つ。グローバル化の分析は単純化されており、静態的かつ還元主義的である。このことは、「グローバル化」はXであるといったり、「グローバル化」がXするといったかたちで叙述する定式化にみることができる。(61頁)

領域、ネットワーク、流動体


そこで、アーリは科学社会学の科学技術社会論(STS)で展開されてきた「領域」、「ネットワーク」、「流動体」の空間パタンの区別に着目する。社会科学はこの区分を十分に認識してこなかった。本書では「貧血症」を取り上げてこの点を明らかにしているが、ここでは、もっと単純化して説明してみよう。

たとえば「言葉」である。言葉は、本来的に流動的であり、ひとつに固定されたり、安定したりするものではない。ところが、ひとつの「標準語(日本語)」として、日本という「領域」内で標準化・均質化が図られている。そして、それは、「不変の可動物」(ブルーノ・ラトゥールの概念。やわらかく訳せば「変わらずに動くもの」。あらゆる個人や集団に伝えられたり、複製されたりするが、しかし、その固定化された意味内容が変わることはない。ここでは、教科書など)による「ネットワーク」によって達成される。しかし、実際の言葉は、さまざまなネットワークを伝って流動するなかで、さまざまに変容している。

この概念装置を用いるならば、今日のグローバルな世界とは、ネットワークが既存の「領域」を超えて広がり、そのネットワークも単一のものではなく、さらには、多様な流動体がそのネットワークを流れ、時空間を超えて緊密に相互作用し合うようになっている世界である。

ちなみに、この見方は、デ・ランダの『非線形史の一千年』(なぜか邦訳がない!)、あるいはアンリ・ルフェーヴルの『空間の生産』に通じる見方である(「移動と係留の弁証法」)。

デ・ランダは、さまざまな物質のフロー、わけてもエネルギー、遺伝子、言語のフローの成り立ちとその成り行きとに関心を寄せている。中国史の幾世紀にわたってみられたように、そうしたフローが「ヒエラルキー型」の均質化(しっかりとした結合)によって支配されたところでは、爆発的、自己組織的な都市の発展は起こらなかった。……都市とは、相交わり合うさまざまなフローの交流の場である……デ・ランダは、これら〔身体、自己、都市、社会〕を、過去の一千年にわたって地球の地表に広まった無機物、遺伝子、病気、エネルギー、情報、言語といった、もっと基底をなすフローの単なる「束の間の硬化」としてみている……「グローバルな複雑性」を討究するなかで、同様の分析を、断続的に「束の間の硬化」を具現させる交合的で非線形的な「物質世界」のフローに対して展開することにしたい。(55頁)

いずれにせよ、こうしてネットワークと流動体を区別することで、マニュエル・カステルのネットワーク社会論(The Information Age 3部作)を批判的に発展させることができる。

カステルの議論では、「ネットワーク」概念があまりに多くの理論的な役割を負わされてしまっている。ほとんどすべての現象が「ネットワーク」というひとつの画一的なプリズムを通して考察されている。そして、この概念によって、ネットワーク化された現象の多様性が覆い隠されてしまっている。すなわち、マクドナルドのようなヒエラルキー状のネットワークから、ヘテラーキー状でまったくまとまりのない「路上抵抗運動」までがひとつにされ、空間的に隣接した日々顔を合わすネットワークから、想像上の「遠くの文化」をめぐって組み上げられるネットワークまでもがひとつにされてしまう。……さらには、まったく純粋な「社会的」ネットワークから、基本的には「物質的」に構造化されたネットワークまでもが、ひとつにされてしまうのだ。これらはすべてネットワークであるのだが、しかし、ネットワークの機能という点でみれば、一方と他方とではまったく異なったものである。(19頁)

具体的には、「グローバルな統合ネットワーク」と「グローバルな流動体」が区別される。グローバルな統合ネットワークは、「グローバル」企業に見られるように、「同じ『サービス』ないし『製品』がネットワーク全体に行き渡り、ほとんど同じ方法で届けられることを確実にしている。こうした製品は予想可能で計算可能なものであり、ルーチン化され、標準化されている」(87頁)。

これに対して、グローバルな流動体は、グローバルな旅行者、インターネット、金融、ブランド、自動車移動、グローバル・リスク、新しい社会運動などに見られるように、

ローカルな情報にもとづいて行動する人びとから生じるが、しかし、そこでのローカルな活動は、無数の反復を通して、いくつものグローバルな波動のなかで捉えられ、動かされ、表象され、市場化され、一般化され、しばしば、非常に離れた場所と人びとに対して影響を与える。ヒト、情報、モノ、カネ、イメージ、リスク、ネットワークの「粒子」は、さまざまな領域のなかを、そして、さまざまな領域を超えて動き、異種混交し、不均等で、予測不可能で、しばしば無計画の波動を形成している……そこに必然的な最終状態や最終目的をみることはできない。このことは、そうした流動体が自ら自身の挙動のコンテクストを時間とともに創り出していることを表しており、そのようなコンテクストによって「引き起こされる」ものとしてみられるものではない。これらのグローバルな流動体のシステムはある面で自己組織的であり、自ら境界を創り出して維持している。(92-3頁)

グローバルな創発


以上のような流動的な現象を読み解くために用意されるのが複雑性科学のメタファーである(ここで「ポストモダン云々」といった批判が聞こえてきそうだが、そもそも、社会学は物理学のメタファーを用いて展開してきたことを忘れてはならない)。本書でも、細かい数学的厳密性がグローバル化の諸現象に適用されているわけではない。本書を読み進めるに当たっては、複雑性概念の「思考パタン」さえ共有できれば問題ない。

具体的には、先に見たインターネットや自動車移動などといった、物理的関係と社会的関係のハイブリッドからなる「グローバルなシステム」が複雑適応系の散逸構造として捉え直される。散逸構造については、空高く浮かぶ鰯雲の秩序立った繰り返しパタンがその典型的な例である。鰯雲は離れてみると極めて秩序だって見えるものの、近づいてみると、結晶のような明確な秩序構造は見られない。一種の対流現象によって、個々の分子はまったく自由に運動(相互作用)しているのである。このように、ミクロ次元のカオス的な相互作用から、マクロ次元の秩序(「秩序の島」)が整然と立ち現れることを「創発」と呼ぶ。

人びとはローカルに知られうるものを拠り所として反復的に行為し、そこにシステムに対するグローバルなコントロールは存在しない。主体はそのローカルな環境に応じた振る舞いをみせるが、それぞれの主体はローカルな状況に対して適応ないし共進化する。しかし、各々の主体は「他の主体もまた適応している環境内で」適応ないし共進化するため、「ある主体における変化は、環境に対して影響を及ぼし、つまりは他の主体の成り行きに影響を及ぼすことになる」……現在の創発秩序は、「グローバル」なるものを集合的にパフォームするいくつもの相互依存的な組織を通じて構造化されたものである。それぞれの組織が共進化し、ギルバートが「マクロ・レベル〔グローバル・レベル〕の特性に『順応(オリエンテイト)』する能力」(Gilbert 1995: 151)と呼ぶものをみせている(120-2頁)

こうした無数の要素による共進化(適応)による自己組織化の結果、諸々のグローバルなシステムが、カオスの縁と呼ばれる、秩序と混沌のあいだの「秩序の島」に位置するようになっている(砂山のような自己組織化臨界)。各要素は一点に固定されているのでもなければ、無法状態へと瓦解しているのでもない。

また、そうしたカオスにおける振る舞いは非線形法則によって規定されているが、カオス方程式で記述されるシステムにはしばしば(秩序と無秩序を併存させた)ストレンジ・アトラクタが観察される。

ここでも難しく考える必要はない。まず、アトラクタについては、振り子運動を考えるとわかりやすい。振り子運動は、徐々に運動エネルギーが失われていく散逸系の運動であり、やがて固有の振幅の振動に吸い込まれ、特定の軌跡や点に落ち着く。この安定した状態をアトラクタという。

これに対して、カオスの場合のアトラクタはストレンジ・アトラクタであり、軌道が決して同じ点を通ることなくいつまでも続いていく。ただし、本書では(適切な用語法ではないかもしれないが)秩序と混沌のあいだにある「カオスの縁」で働くアトラクタを想定しているようだ。つまり、無数の要素が相互作用し合うなかで、平衡から遠く離れた諸々のグローバルなシステムにもアトラクタは存在しており、相互連関の関係にある秩序と無秩序を正のフィードバックによって引き込みつつ自己組織化を続けているのである。

これをアーリは「グローカル化」のアトラクタと読み替え、グローバル化(凝集)とローカル化(分散)の相互進展をさまざまに読み解く。「資本の文明化作用」(中枢性の弁証法)はもちろんのこと、ナオミ・クラインの『ブランドなんか、いらない』など数々の例証があるなかで、アーリが特に注目するのが「グローバルなスクリーン化」である。

このアトラクタの作動の一例として、オリンピックのようなグローバルなメガ・イベントがローカルな開催都市の創発を前提とするとともに、その創発を強化するようにみえることが挙げられる。こうした開催都市が選ばれるのは、その都市が、とりわけグローバルな度合いを強めるイベントの開催にふさわしいユニークでローカルな特徴とされるものを有していることにある。(130頁)

パフォーマティブなグローバル化


この事態は、グローバルなものを「パフォーマンス」として読み解くことで、いっそう明快になる。アーリが援用するのは、ジュディス・バトラーのパフォーマティビティ概念に依拠したフランクリンらの Global Nature, Global Culture の議論である。

バトラーは、パフォーマンスにとって反復の有する決定的な重要性を明らかにしている。構造は永久に、固定されることも与えられることもない。構造は、常に時間とともに働きかけられなければならない。そして、何かに(たとえばグローバルなるものとして)名を与えること自体が、ある程度、名付けられた当のものを生み出すことなのである。……グローバルなるものはそれ自体で「パフォームされ」、その外部のものに起因するものではなく、その外部の影響の原因とはならない……。グローバルなるものは、非常に多様なスケールないしレベルで動いている多数の領野にわたって「パフォームされ、想像され、営まれている」ものである。(149頁)

このパフォーマンスの中核をなすのがグローバル・メディアとグローバル・ツーリズムであり、そのなかで、ナショナリティの性格も変容し、「領土」がナショナルな自己規定の中心ではなくなってきている。「ナショナリティは、種差的なローカルな場所、シンボル、景観を通じて、すなわち、グローバルなビジネス、旅行、ブランド化の等高線におけるその文化の位置にとって中心をなす当のネーションのイコンを通じて構成される度合いを強めている」(130頁)。

あらゆる国民社会が福祉国家を脱し、脱領土化とスペクタクル化を強め、多かれ少なかれ〈帝国〉への歩を進めているが、その背後で無秩序の荒野を広げてており、「カオスの縁」で自己組織化したテロリズムがグローバルなネットワークのなかを流動体として姿形を変えながら蠢いている。アーリにしたがえば、ネグリとハートのいう〈帝国〉も、一つの実体ではなくグローバルな複合体であり、つまりは諸社会を不可逆に引き寄せるストレンジ・アトラクタなのであり、国民社会や超国家組織はそのなかの「秩序の島」なのである。

したがって、単一のグローバル・システムなる平衡系が存在するのではない。複雑系社会学が定位するグローバル・システムとは、数々の相互依存的で異種混淆的なネットワークと流動体からなるグローバルな複雑連関性を有した開放系なのである。この開放系は一つの平衡点に向かうこともなく、またその生物学的、社会的、物理的なプロセス間の関係を規定することは不可能であり、初期条件のわずかな変化に過剰に反応し、ある時点を越えるとシステムの振る舞いが予期せぬものになる(バタフライ効果)。「このグローバル・システムがオートポイエーティクな自己制作を通じて全体として組織されることを示す証左はない」(154頁)。

グローバルな場所の政治学に向けて


こうして、アーリは、「グローバルなもの」を一つの非平衡システムとして扱うのだが、ここで注意したいのは、この立場はかつての全体論(社会システム理論)とは異なるということだ。アーリの議論に対して、「現実に存在する支配や抑圧の事実を隠蔽するものだ」として論難する反グローバリズムの批判は正しくない。支配や抑圧の状況を客体的・一方的に批判するだけでは、ローカルな行為者の持つ潜在的な能力を見失い、「支配」の構図の再生産に与することになりかねない。グローバル複雑系において重要なのが常に構成要素間の相互作用であるということのもつ意味を十二分に考えてみる必要がある。

グローバルな「構造」があり、そのなかにローカルな「主体」があるのではない。グローバルとローカルは、複雑系のカオス的秩序の表裏を成すものなのである。この意味において、グローバル化とローカル化は一体的なものなのだ。したがって、社会生活の動的パタン化のためにグローバルな静態秩序が存在しないように、ローカルな静態秩序もまた存在しない。換言すれば、グローバル「社会」が存在しないように、自律的なローカル「社会」もまた存在しない。アーリが言うように、グローバルな「世界システム」やそれに対するローカルな「生活世界」などというのも存在しない(184頁)。

つまり、グローバル化に「抵抗」する他の「領域」が存在するのではなく、グローバル-ローカルのスペクトル上を動く創発的で不可逆的な「さまざまなプロセス」が存在するのだ。こうしたローカルなプロセスはスケイプとフローを通じて、観念、イメージ、ヒト、カネ、テクノロジーを動員して、時空間の圧縮を背景に他のローカルな文脈と連接する。つまり、各々のローカルな行為は反復を通じて、捉えられ、動かされ、表象され、市場化され、一般化され、しばしば非常に遠い場所と人びとに影響を与えるものとなる。

こうして、グローバルなスケイプとフローを通じて「場所」はもはや秩序化した「社会」ではなくなる。このなかで「ローカルななもの」も、「領域」ではなくパフォーマティブなものとして捉えられるようになる。つまり、場所とは、「多重チャンネルとして、つまり関連のあるネットワークとフローが集まり、合体し、連接し、分解する空間の集まり」(アーリ『社会を越える社会学』246頁)であり、独特なパフォーマティビティを有したものなのである。

さらに言えば、ド・セルトー流の場所把捉――動く諸要素が交錯することによって構成され、つまりは運動の総体によって分節化される――が新たなリアリティを獲得しつつある(『日常的実践のポイエティーク』)。このなかで、空間は「フラクタル空間」として脱スケール化し、共存的関係と媒介的関係の境界が揺らぎ、身体化されたものと遠隔されたものとの境界が揺らぎ、グローバルとローカルの境界が揺らぐ(デヴィッド・ハーヴェイ Spaces of Hope, pp.85-6)。

ローカルなアイデンティティは、自律的なものでも自己規定的なものでも本質的なものでもなく、実際には〈帝国〉諸機械の動力学に組み込まれたものなのだ。こうしてローカルな超越的外部という思考から脱却することで、今日の「グローバルな場所の政治学」とでも呼べよう地平が切り開かれる。個々の「社会」がグローバルな統合ネットワークを伝って場所を視覚的にパフォームするとともに、グローバルな流動体がその場所を身体的にパフォームし返す。9・11がその典型であった。批判理論もまた、「流れ」(フロー)のなかで進まなければならない。

関連リンク



書籍情報


グローバルな複雑性 (叢書・ウニベルシタス)
ジョン アーリ
法政大学出版局
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社会を越える社会学―移動・環境・シチズンシップ (叢書・ウニベルシタス)
John Urry 武田 篤志 伊藤 嘉高
法政大学出版局
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A Thousand Years of Nonlinear History (Swerve Editions)
Manuel de De Landa
The MIT Press
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脱原発運動の特殊性と普遍性―青木聡子『ドイツにおける原子力施設反対運動の展開』
―2014年01月05日

青木聡子『ドイツにおける原子力施設反対運動の展開』
日本では、東日本大震災(福島第一原子力発電所事故)以後、脱原発が一大政治争点化しているが、その先駆けをなすのがドイツである。2000年6月には、早くも連邦政府(社会民主党&同盟90/緑の党連立政権)が、国内20基の原子炉の段階的停止などの基本合意を電力業界とのあいだで実現させていた。その後の保守中道政権下では原発稼動期間の延長が決定されたこともあったが、東日本大震災後の2011年6月には、周知の通り、2022年までに脱原発を達成することを盛り込んだ第12次原子力法が閣議決定されたのである。こうした脱原発への方針転換は、反原子力運動の盛り上がりを受けてのことであったという。

『ドイツにおける原子力施設反対運動の展開』の著者、青木聡子は、社会運動論&環境社会学を専門として、ドイツの環境運動、なかでも原子力施設反対運動を対象にフィールドワークを積み重ねてきた研究者である(余談だが、青木さんはわたしの大学院生時代の研究室の先輩であり、同じ院生部屋で交誼をいただいた。青木さんの真摯な研究姿勢は、研究室に確かな秩序をもたらすものであった。)

青木が問うのは、(1)原子力施設反対運動の担い手である「周縁」の形成過程であり(どのような人びとが何故に周縁を選択し、周縁にとどまり続けるのか)、(2)そうしたローカルな抵抗運動がどのようにして連邦レベルの「うねり」へと拡大したのかである。以上の論点について、わたしにとって特に興味深かったところを取り上げてみたい。

普遍主義的な市民運動観を超えて


(1)について、青木は、現場でのフィールドワークを通して、原子力施設反対運動を「普遍的価値を有する自立した市民による運動」などと一面的に捉える見方を退ける。青木は、地域を基盤とした地元住民有志による運動が外部に対する開放性を獲得していく動的過程を析出するのである。

諸集団、とりわけ激しい直接行動によって現場に混乱をもたらしかねない外部参加者に対して、運動が初めから開かれていたわけではない。開放性をBI〔市民/住民運動団体〕の本来的性格であるかのように理解するのは事実に反していよう。むしろ対外的な開放性は、運動の過程で集合行為フレームの変容や集合的アイデンティティの変容、敵手の認識の変容を伴いながら、BIメンバーや地元住民によって意識的に選択され獲得されるものである。(48頁)

たとえば、ヴァッカースドルフにおける使用済み核燃料再処理施設反対運動の場合(第5・6章)、当初、元来保守的(権威主義的)な地元住民たちは、非暴力的で「正統な方法で『敵』(電力会社&州首相)の非を社会にアピールする者」として集合的アイデンティティを形成していた。各地からオートノミーと呼ばれる暴力的な若者たちも集まってきたが、そうした若者による暴力的行為に住民たちは辟易しており、運動は外部に対して閉じられていた。

ところが、1986年の占拠運動が状況を一変させた。その強制撤去にあったのが、「自分たちと友好的な地元警察」ではなく、連邦国境警備隊とベルリン機動隊であり、これら国家権力が地元住民に敵対的な対応を取ったのである。「こうして、『国家権力から剥奪された私たち』という集合的アイデンティティを受け入れざるを得なくなった地元住民は、『自らの正当性をめぐる闘争」という新しい集合行為フレームを形成することで、国家権力による正当性の揺さぶりを克服しようとした。この時点において、反対派地域住民のなかで『闘う存在』としての集合的アイデンティティが形成され始め」(185頁)、対立軸は原子力政策の正当性をめぐる軸に収斂され、「私たち」の範囲も拡大していくことになったのである。

なぜ運動は持続するのか―戦後ドイツの特殊性


しかし、こうした「対決型」運動が一過的・局地的なものにとどまることなく、結果として持続的な「普遍性」を獲得し、動員力と支持を獲得し、ドイツ社会全体が脱原発へと転換するまでに至ったのはなぜなのだろうか。第8章で展開されているゴアレーベンの反対運動の分析では、数々の参加者へのヒアリングから、運動の第一世代は、ときに第二次世界大戦やナチス時代に言及し、「そんな経験をするのは私たちだけで充分」という感情を示し、「後の世代のための闘い」という意味づけが共有されている。そして、第二世代(学生運動世代)の場合は、

私たちの世代は学生運動の時に親世代を糾弾したでしょ。「なぜヒトラーの台頭を許したのか。なぜナチスに抗して何もしなかったのか」と。そういった〔親世代の糾弾をおこなった〕私たちだからこそ、子どもや孫の世代に問われたときに、きちんと答えられるようにしたいの。(235頁)

こうしたヒアリング結果の分析を通して、青木は、ドイツの学生運動世代が抗議運動にコミットし続けた理由として、「ドイツの学生運動が『過去の克服』という特殊ドイツ的主題のもと展開されていたことが挙げられる可能性」(237頁)を示唆する。運動の表出的側面が重視されるからこそ、「一見『無駄な』行為を堂々と繰り返すことができるのであり、自らの行為に意義を見出すことができるのである」(238頁)。

以上は簡単な紹介に過ぎないが、本書の分析からは、ドイツの住民/市民運動が結果として獲得した普遍性は、あくまで戦後ドイツの特殊性が下支えしていたという視点が浮かび上がる。そうした世代責任と正統性への疑義に根ざした「対決型」の抗議運動の存在が、抗議行動の制度化(体制側への取り込み)を回避し、多様な中心/周縁の動力学を成り立たせてきたのだ。

対する日本では、どうだろうか。第二次世界大戦の「過去の克服」がなされず、権威主義的パーソナリティと国家の正統性が保持され、普遍と特殊が交わることはない。そして、原発再稼働の道筋が着実に付けられようとしている。本書は、脱原発の是非そのものについて別に検討する必要はあろうが(たとえば長谷川公一『脱原子力社会の選択 増補版』)、日本の中心/周縁のありようを考える上でも、得られるものは大きい。

目次


序 章 原子力施設反対運動への視座
第Ⅰ部 ドイツにおける「新しい社会運動」と原子力施設反対運動
 第1章 「新しい社会運動」とビュルガーイニシアティヴ
 第2章 ドイツにおける原子力政策の変遷と原子力施設反対運動の展開
第Ⅱ部 原子力施設反対運動への若者の接近
 第3章 ヴィール原発反対運動の生成と展開過程
 第4章 若者の運動参加とその影響
第Ⅲ部 原子力施設反対運動における集合行為フレームの動態
 第5章 ヴァッカースドルフにおける反対運動の生成と展開過程
 第6章 BISの運動戦略と地元住民の脱権威主義化過程
第Ⅳ部 ドイツにおける原子力施設反対運動と環境運動の現在
 第7章 原子力施設反対運動経験地域の「その後」
 第8章 ゴアレーベン反対運動にみる運動観の特殊ドイツ性
終 章 「社会運動社会」ドイツ
注/あとがき
資料1 ドイツにおける原子力施設関連年表
資料2 ドイツにおける原子力法に基づく原子力関連施設立地手続き
資料3 ドイツにおける建設法に基づく原子力施設立地手続き
資料4 ドイツ全図

書籍情報



脱原子力社会の選択 増補版
長谷川 公一
新曜社
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なぜ制限用法の関係代名詞でも前から訳すべきなのか―虫の目の日本語
―2013年11月16日

これまで、ジョン・アーリを中心に、いくつかの学術翻訳(社会学系)を行ってきた(輸入学問に身を染めないように注意!)。大学院生時代には、翻訳に関して技術指南書を含めさまざまな書籍を読んだ。そうした書籍でまず強調されるのは、学校で学ばされる英文和訳と翻訳とはまったく異なるということだ。学校英文法に根ざしたいわゆる「直訳調」が日常の日本語からひどくズレていることは明らかであるが、なぜ、ズレてしまうのだろうか?

関係代名詞の訳し方?


ここでは、関係代名詞の訳し方を取り上げよう。学校で学ばされる英文和訳の場合、制限用法は「後ろから」訳し、非制限用法は「前から」訳せとなる。たとえば、

・I know a restaurant that serves delicious pasta.
(パスタの美味しいレストランを知ってるよ。)
・I like the restaurant, which pasta is delicious.
(そのレストランが好きなんだ、パスタが旨いんだよ。)

のように、後者の「非制限用法の関係代名詞は、先行詞の説明や理由を付けるもの」であり、そして、両者の違いを理解していることが(教師に!)明確に伝わるように訳すべく、制限用法は「後ろから」訳せ、非制限用法は「前から」訳せとなる。

制限用法の関係代名詞でも前から訳す


しかし、あくまでこの訳し方は便宜的なものに過ぎない。そもそも、後ろから訳すということ自体が、英文を英文のまま理解するという原則から離れてしまっている(英語話者は後ろから意味を理解しているわけではない)。「前から訳せ」は、何も関係代名詞の非制限用法に限った話ではなく、翻訳の基本である。したがって、ある程度の長文になると、制限用法でも「前から訳す」方がうまくいくことが多い。

私が院生時代に目を瞠かされた三好弘『すぐつかめる英語翻訳のコツ』(タイトルは温いが良書である)でも、「コンマがあるないにかかわらず、前から訳していい」(p.113)として、以下のような英文と試訳が挙げられている。

I was tired of the man and his thought that had so long occupied me.
〔直訳〕私は長い間、私をひきつけたその人と思想にあきた。
〔訳例1〕私はその人と思想にあきあきした。というのは、そんなに長い間私の頭の中をいっぱいにしていたのだから。
〔訳例2〕その人と思想は長い間私をひきつけていたが、もういやになった。

Here is another riddle which educators might profitably investigate.
〔直訳〕ここに教育家が有益に研究できるもう一つのナゾがある。
〔訳例1〕ここにもう一つのナゾがあるが、教育家がそれを研究したら有益かもしれない。
〔訳例2〕これもまた一つのナゾで、この点を教育家が研究したら寄与するところ大だろう。

後ろから訳した「直訳」が噴飯物であることは一目瞭然だ(ただし何でも前から訳して良いわけではない。先行詞の内容を厳密に制限している場合、「~であり、これは~」式に単純に訳すと意味が通らなくなる場合がある)。

なぜ違和感を感じるのか


学術翻訳では、学校で教わる英文法に根ざした英文和訳型の「直訳」を高くみる風潮があったらしいが(いまだにそんな翻訳書を見かけることもあるが……)、「直訳」すべき対象は、英文法の構造(構文)などではなく、原著の意味内容であるはずだ。原著者が日本語話者であるとしたら、どう日本語で書くのかを考えて訳すべきである。

それはともかく、ここで考えたいのは、(構文通りであるにもかかわらず)なぜ後ろから訳す直訳調に違和感を感じるのかである。もちろん、単に語順通りに情報処理がなされないからということもあるだろうが、ここで参考になるのが、金谷武洋の日本語論である。金谷によれば、英語のような主語構文は、主体が上から眺めていく神の目からの構文であるのに対して、日本語は、地面を虫が這っていく、虫の目からの構文なのである。

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『季刊iichiko』113(特集 金谷武洋の日本語論)p.10
つまり、右図にあるように、英語のような主語構文は主語である「Taro」が頂点に立ち「クリスマスツリー型」に末広がりになっていくのに対して、日本語の場合、主語にあたる「太郎」が「家」や「ピザ」と並列に並んでいるにすぎない「盆栽型」になっている。主体ではなく、状態の表出(コト)が核をなしている。

山本哲士もまた、「述語意志」による場所論を展開するなかで、金谷の議論をこうまとめる。

英語では、モノとモノとの関係、他動詞文における主客の区分が重要になる。……明確な輪郭をもったモノを、コトからとりだして、その間に行為者=主語とその対象=目的語の関係をつくりだす。わが身を、状況から切り離しコトをモノ化する……。虫の目は、地上を這いながら探察的かつ発見的に物事が叙述される。……神の目の主語言語は、状況から切り離された地平からまるで他人事のように高みの見物をする。(山本哲士『哲学する日本』p.153)

かくして、「わたしは、子どもたちにいじめられている亀を助けました」というよりは、「亀が子どもたちにいじめられているのを助けました」となる。後者の文は「わたしは」が省略されているのではない。わたしに「わたし」は見えていないのである。そして、前者は制限用法の関係代名詞の訳し方そのものである。

神の目は翻訳不可能である。神の目から理解するのであれば、原書を読むほかない。日本語翻訳とは、神の目を虫の目から読み解き直す営為である。そのために語学能力は必要であるが、しかし、表層的な語学能力の習得に満足してはならない。主語的構文では消えてしまっている述語的な表出性をも追究していかなければならない。

今回の参照文献



哲学する日本
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山本哲士
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日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)
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無印のなかの場所―近森高明・工藤保則編『無印都市の社会学』
―2013年08月21日

近森高明・工藤保則編『無印都市の社会学―どこにでもある日常空間をフィールドワークする』
近森高明・工藤保則編『無印都市の社会学―どこにでもある日常空間をフィールドワークする』が法律文化社より刊行された(近森先生、献本御礼)。複製されたジャンクな消費装置であふれかえる今日の都市空間が本書の対象とされる(たとえば、コンビニ、ショッピングモール、サービスステーション、大規模量販店などなど)。

こうした都市空間は、しばしば「非場所」とネガティブに形容されてきた。つまり、非場所とは、コミュニティの集合的記憶が物質的に堆積された「場所」と対比されるものであり、「超近代」の社会関係を特徴づけるものであり、「まったく新たな孤独の経験と試練」(マルク・オジェ)を人びとにもたらすものである。非場所同士を区別するものは何もなく、人びとはすれ違いはするが出会うことはない。

無印都市―「身体の緊張」からの脱却


ところが、本書では、このように論断される都市空間のありようが「無印都市」とニュートラルに名付けられ(コールハースの「ジェネリック・シティ」からとられている)、そこでの人びとの空間的営為の厚みと広がりと豊かさとがポジティブに捉え返される。しかも、それは「『無印』化に対抗するカウンターの動きというよりも、むしろそれ自体が『無印都市』の享受の仕方の一部に含まれる動き」(p.6)であるという。

編者の一人である近森は、その特徴をベンヤミンの「気散じ」ならぬ「身散じ」の態度として捉える。すなわち、記号消費によって舞台化された都市のなかで、他者の目線を感じ個性化のゲームを繰り広げざるをえない「身体の緊張」からの脱却である。

「無印都市」のジャンクな消費装置のなかでは、身体はきわめて弛緩し脱力している。〔基本的な空間レイアウトが統一された〕コンビニのなかで、TSUTAYAのなかで、モールのなかで、私たちはとくに他者の視線を意識したりせず、まるっきり油断をしてだらしなく過ごしている。身体をゆるやかに弛緩させた状態で、全面的に調整された消費環境に、受動的に身を浸すような態度。それが〈身散じ〉の状態であり、ジャンクな消費装置は、そうした〈身散じ〉を積極的に誘発し助長する消費空間である。(p.15)

〈身散じ〉と非近代の場所


本書を読みながら、ジンメルの『大都市と精神生活』を思い起こした。ジンメルは、近代の都市生活が、時計の時間に支配された「最高度の非人格性をもった構造」をもつなかで、他者との差異化を目指す「高度に人格的な主体」を生み出すという両面性を描き出したのであった。

しかし、本書で描かれる、だらしない〈身散じ〉はもはや近代的主体の営みではない。本書では、さまざまな論者がさまざまな消費装置を対象にしてフィールドワークを行い、自ら〈身散じ〉の状態に身を置いているが、そうして生まれた論考からは、以上のような近代の両義性に回収されない非近代(反近代ではなく!)のポジティブさを読み取ることができる。たとえば、アートフェスティバルの論考からは「序列の不在を秩序付ける『つながり』は、批評を必要としない分だけライトな消費を誘発する」(p.186)といった指摘がなされる。

しかし、思うに、そうしたフレキシブルな〈身散じ〉の裏側には、消費装置に従事する人びとのマニュアル化されたノン・フレキシブルな動き(さらには舞台裏でなされる物や情報の動きの統制)があるはずだ。ただし、そうした複雑な動きのネットワーク自体もまた脱中心化されたものになっている。たとえば、大規模イベントの誘導員など、一見計画に沿ってなされているように見える行為でも、実際のところは、その場その場の状況との相互作用に基づき最適とされる行為が創り出されている。

より熟慮された、また、それほど高次に技能的ではない活動においてさえ、一般に、私たちは、ある行為の道筋がすでに実行されるまでいくつかの選択可能な行為の道筋やその結果を予期したりはしない。そのいくつかの可能性が明らかになるのは、現在の状況において行為が進行中のときだけということは頻繁にある。(ルーシー・サッチマン『プランと状況的行為』p.51)

こうした複雑な動きのネットワークのなかで、はじめて人びとの〈身散じ〉が可能になっている。つまり、人びとの〈身散じ〉とともに、さまざまな動きが相互連結・相互依存の束となって、多くの差異化が取り払われ、人びとは複雑適応系の要素となる。この複雑系こそが、今日の無印都市のなかで動力学的に創発する新たな「場所」なのかもしれない。

目次


Ⅰ 無印都市のフィールドワーク
1. 無印都市とは何か?
2. 都市フィールドワークの方法と実践
Ⅱ 無印都市の消費空間
3. 人見知り通しが集う給水所(コンビニ)
4. 消費空間のスタイルがせめぎあう場所(家電量販店)
5. 安心・安全なおしゃれ空間(フランフラン)
6. 「箱庭都市」の包容力(ショッピングモール)
7. 目的地化する休憩空間(パーキングエリア)
Ⅲ 無印都市の趣味空間
8. 孤独と退屈をやり過ごす空間(マンガ喫茶)
9. 匿名の自治空間(パチンコ店)
10. 味覚のトポグラフィー(ラーメン屋)
11. 「快適な居場所」としての郊外型複合書店(TSUTAYA/ブックオフ)
Ⅳ 無印都市のイベント空間
12. 目的が交差する空間(フリーマーケット)
13. 「場」を楽しむ参加者たち(音楽フェス)
14. 順路なき巨大な展示空間(アートフェスティバル)
Ⅴ 無印都市の身体と自然
15. 都市をこぐ(自転車)
16. 都市空間を飼い慣らす(フィットネスクラブ)
17. ビーチの脱舞台化・湘南(都市近郊の海浜ゾーン)
Ⅵ 無印都市の歴史と伝統
18. すぐそこのアナザーワールド(寺社巡礼)
19. 構築され消費される聖と癒し(パワースポット)
20. 不親切な親切に満ちた空間(寄席)

書籍情報



近代アーバニズム (都市社会学セレクション1)

日本評論社
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プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性
ルーシー A.サッチマン
産業図書
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SPSS多重回答グループ集計で注意すべき「無効回答」の扱い
―2013年06月17日

アンケートで複数回答(多重回答)可の設問(たとえば、「当てはまるものすべてに○を付けてください」など)を分析する場合、選択肢ごとに2分コード化(1:はい、0:いいえ)した変数を作成する。そして、SPSSでは、これらの変数を「多重回答グループ」として登録することで、全選択肢を一括して集計、分析することが可能になる(さらに、Custom Tablesのモジュールを用いれば、カテゴリの並べ替えや表示・非表示なども簡単にできるようになる)。

注意すべきは出力された「パーセント」の定義である。たとえば、Custom Tablesのモジュールを用いて、カスタム・テーブルで集計する場合、次のように多様なオプションが用意されている。

spss_customtables.jpg

しかし、ここで注意すべきは、いずれのオプションでも、全項目が(上記の二分コードで言えば)ゼロになっているケースは、無効回答扱いされ、集計対象外となることだ(つまり、分母の数に含まれない)。もちろん、モジュールを適用しないBase Systemの多重回答集計でも同様である。

通常のアンケートで複数回答による設問の場合は、「いずれも当てはまらない」という選択肢を用意しているはずであり、すべてがゼロになるケースはないだろう(話は逸れるが、「いずれも当てはまらない」の選択肢を用意していないアンケートは、無回答との区別を付けることができないため論外である)。そうした場合に多重回答の集計を行っても問題になることはない。

しかし、複数の設問から複数の選択肢を組み合わせたり、診療情報のデータベースなどのデータから多重回答グループ化した場合、全変数がたまたまゼロとなり無効回答扱いされるケースが生まれる可能性がある。したがって、この際には、全変数がゼロになるケースがないかどうか注意することが必要である。

欲を言えば、無効回答は各セルに欠損値の「-5」なり「-9」なりを入力しているのだから、すべてが「0」のケースも集計対象に含めてパーセントを出力するオプションを用意して欲しい。

参考情報

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ローカル・ガバナンスの条件―ネオリベラリズム批判に応える
―2013年05月18日

ローカル・ガバナンス(自己組織型ネットワークによる地域自治)の可能性について議論すると、「それはネオリベラリズムに回収されるだけではないか」と指摘されることがある。理念による批判はいくらでも可能である。その批判を踏まえた上で、英国のニュー・レイバーによる取り組みを参考に、(単なる「ローカリズム万歳!」ではない)ローカル・ガバナンスの条件を明らかにしたい。

ローカル・ガバナンスとは何か


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ガバナンス論の古典。R.A.W. Rhodes (1997) Understanding Governance
英国では、70年代後半以降のサッチャー、メージャーの保守党政権によって、基礎的サービスの提供者としてのガバメントから「条件整備型国家」(enabling state)への転換が進められた。しかし、実際のところ、中央でも地方でも財政支出はほとんど減少せず、80年代から90年代にかけて保守党政権は中央主導による財政縮減を進めることになった。

これに対して、地方の左翼勢力は保守党政権へ対抗すべく、機会均等や職業訓練、権限分掌などの施策を行ったが、これも財政赤字を悪化させるばかりで十分な効果は上がらず、90年代後半以降、強制競争入札制の導入などによって、市民=顧客の想定の下に直接的なサービス供給への依存をやめ混合経済と共に生きる道が選ばれることになった。

しかし、その結果はといえば、監査コストが増大するとともに、歳費削減は地域住民への行政サービスの削減によってなされ、地域行政は停滞し、中央の官僚的管理システムは肥大化を続けるばかりとなった。しかし、この「政策の混乱」から生まれたのがローカル・ガバナンスである。

すなわち、カバメントを一元的に捉えることが困難になり、一つの政策決定において、中央・地方政府機関、民間企業、第三セクター、NPO、コミュニティなど多元的なアクターが関与し、そのネットワークと相互調整・信頼によって、その決定過程がなされる状況がもたらされたのである。

要するに、官僚制国家と市場という二分法では捉えることのできない中間領域が新たに立ち現れており、この「組織間のいくつもの自己組織ネットワーク」を通じて形成される政治過程が「ガバナンス」と呼ばれ、このガバナンスの複雑系を積極的に採り入れたのがニュー・レイバーによる住区協議会、LSPの設置を含めた一連の政策である。

「公共価値」の創出


ニュー・レイバーによれば、十分なサービス供給という点だけではもはや国家による介入を正当化することはできない。行政はガバナンスのシステムを通じて「付加価値」を提供しなければならない。この付加価値は「公共価値」と呼びかえられる。つまり、公共サービスの目的は公共価値を付加することにあり、公共価値が付加されないのであれば、そこに一切の正当性はない。

そして公共サービスは「無料の」資源、つまり同意、法の遵守、公共的な決定によってその価値が付加される。付加的な公共価値は、問題の解決に向けた協議を重ねることによる社会資本の蓄積によってもたらされるからだ。民主制社会の中で入手可能な付加的な資源を用いることにより、限られた財政の中でより多くの成果をあげることが可能となる。従来の公共サービスは公務員の存在が前提とされてきたが、それが必ずしも最適な費用効果を生み出すとは限らない。各セクター間のバランスのとれたガバナンスの民主的な選択こそが最大の効果を生み出すのである。

したがって、市場の効率性を公共セクターに移すという市場主義者の議論は、生産物と公共価値の違いを考慮に入れておらず間違っている。つまり、公共的なセクターがうまく機能するのは、その時々の問題に対処できる強さを民主的な過程が有しているときに限られているからである。

こうした理念の下にニュー・レイバーは、ガバナンスの領域における民主的プロセスを保障する装置として住区レベルでの協議の舞台、LSPを導入したのである。

ネオリベラルな地方主義?


ただし、冒頭で触れたように、ニュー・レイバーによるガバナンスのプロジェクトは多くの批判を浴びてもいる。その典型が、ニュー・レイバーによるガバナンスへの転換は、その理念に反してネオリベラリズムの罠に陥ったものであるとする批判である。

すなわち、ボブ・ジェソップらの知見に則りニュー・レイバーの政策をポスト・フォーディズム型生産様式による「都市空間のネオリベラル化」、「ネオリベラルな地方主義」と論断し、その帰結はニュー・レイバーのガバナンス論者が言うような「新たな地方主義」の理想などではなく、規制緩和による地域間、地域内競争の激化による過酷な現実であるとする。そして、ガバメントからガバナンスへの転換自体がネオリベラリズムの一要素だと見なすのである。

そこで、以上の対照的な議論を踏まえながら、ローカル・ガバナンスの可能性と限界を見定めるために、その要をなすLSPの取り組みの実際をみてみよう。

Local Strategy Partnership


LSP(local strategy partnership)とは、官・民・共のサービス供給セクターのローカルなネットワーク組織であり、セクター間の戦略的な協働と目標設定による地域改良を目的としている。その協議と意志決定は住区レベルでなされ、地域コミュニティも直接参加できるのが特徴であり、政府資金の補助対象団体として全国に広がっている(ウェールズではLocal Service Boards、スコットランドではCommunity Planning Partnerships)。

この試みは、80年代以降に分断化した各制度組織を地域レベルで包摂する「ローカルなメタ・ガバナンス」を目指すものであり、地域の幅広い声やニーズをローカル・ガバナンスに届かせる装置として位置付けられているが、他方で、その運営は中央政府の監査と管理の下におかれてもいる。

このLSPによる新たなガバナンス様式は、コミュニティも含めた各セクターによる代表制モデルによっており(かつてのコーポラティズムと類似した面もあるが、階級利害に基づく排他的な組織化とは位相が異なる)、利害関係が制度化された地方政党による代表民主制による旧秩序を揺さぶるものである。

ただし、このことを逆に説明責任の拡散や民主主義の弱体化と捉えることもできる。この点から協議会における地方議会議員の役割の拡大を求める声もある。ただし、それでも結果として、旧来の地方政治の透明性、説明責任の欠如はもはや擁護することが難しくなっていることは事実であり、LSPは従来の議会制民主主義を補完するものとして評価することもできる。

しかし、他方で、インフォーマルな連携によってビジネス志向の強力なアクターたちがLSPにおいて「コミュニティ」の利害を代表する傾向が強まっており、ネットワーク・ガバナンスの有する透明性や説明責任の限定性を指摘する声や、セクター間の協働よりは市場化や地域経済の破壊、つまりはネオリベラル化を進めるものだとする指摘も生まれている。事業の推進のためにコミュニティの名による包摂よりも官僚制化を優先させるケースもある。つまり「弱い紐帯」による協働ネットワーク化の限界であり、現実の強い紐帯に基づくフォーマルな組織体に打ち勝つことの困難さが認識されているのである。

ローカル・ガバナンスの文化多元性


以上みてきたように英国の住区レベルのガバナンスは、行政官僚による合理性の論理とコミュニティによる包摂の論理と市場による個人化の論理とを同時に抱えて進んでいる。ここで重要なことは、単一の論理に基づき協働によるサービス生産の是非を短絡的に問うことではない。

むしろ、問題なのは、市場なり官僚制なりコミュニティなり、一つの論理やアクターに回収されきることである(したがってネオリベラリズムと公共政策の融合は明確に否定されることになる)。一面的な論理はわかりやすく批判力があるが、しかし、その批判力の強さは、多分に文化的バイアスの強さに由来するものである(「なぜリスクは過小/過大に評価され、専門知が貶められるのか―メアリ・ダグラスのリスク文化論」を参照)。

逆に言えば、市場にせよ官僚制にせよコミュニティにせよ、そうした一つの論理やアクターを全否定することも誤りである。平時において進むべき道は中庸であるが、中庸とはあらゆるバイアスを否定して悦に入ることではなく、多様な制度文化の長短を見極め、経験的な地平において適切なバランスをとることである。

したがって、重要なことは、文化的バイアスの多元性を認めることであり、そうして数々の矛盾する声と討議し「協働」し続けることで準自律的な倫理=政治過程を創発させることである。ローカル・ガバナンスの意義もその点にこそ求められるものなのである。

今回の参考書籍


Understanding Governance: Policy Networks, Governance, Reflexivity and Accountability (Public Policy and Management Series)
定価:¥ 4,723
売上ランク:64065位
出版日:1997-08
出版社:Open University Press
作者:R. A. W. Rhodes
ページ数:252
by 通販最速検索 at 2013/05/18
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