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ただ生きてあることの等しさ―川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』
―2012年11月18日

川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』
自分の存在の「価値」に悩むことがある。「社会的価値」や「経済的価値」などといった一面的な価値が人間の価値そのものであるかのような錯誤が世界を覆っている。そのなかで自分の価値は相対化され、ものさしで測られるものとなり、気がつけばいたずらな富や権力や権威にすがるようになる。そして、そうした「分かりやすさ」に身を委ねることで、次第に「ただ生きてあること」の豊かさを失っていく。

川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』(医学書院、2009年)は、言葉と動きを封じられたALS(筋萎縮性側索硬化症)の母親に対する看取りの記録である。ここからは、時として「無意味な延命」と非難される人びとの生の豊かさを読み取れるが、私にとっては、逆に、自分の生の貧しさを突きつけてくる書籍でもあった。

尊厳ある死?


生の価値が「生産性の市場」によって判断されるようになるなか、「世の中は長患いの人の生を切り棄てる方向に猛スピードで走り出している」(264頁)。しかし、尊厳ある死を支えるのは、孤独な自己決定権などではなく、尊厳ある生であることに、まずは気づかされる。

母は口では死にたいと言い、ALSを患った心身のつらさは分かってほしかったのだが、死んでいくことには同意してほしくなかったのである。……自分は絶望している。こんな身体ではつらくてとても生きていられないと思う。すぐにでも泡のように消えてしまいたいが、「あなたはいなくなったほうがいい」などとは誰からも言われたくない。その瞬間に自分の尊厳は地に叩き落とされてしまうからだ。(47-8頁)

毎日の着替えもオムツの交換方法も、手や足を置く位置も、「何から何まであなたたちの言うとおりになどならないわ」という意地さえ感じられる。しかし今思えば、そうやって母は自己主張の練習をしていたのだった。……私たちにされるままになることに徹底的に抵抗を示すことで、ケアの主体の在り処を教えてくれていたのである。これも今だからこそ本当によく理解できるのだが、あのときは自分勝手ばかりいう母が許せなかったし、母のわがままとしか思えなかった。(60頁)

では、尊厳ある生(=自立した生)は何によって支えられるのか。パターナリズムに基づく一方的なケアでないことは言うまでもないが、しかし、本人の一方的な自己主張を聞き入れることでもない。尊厳ある生とは、人やモノとの関係の双対性が担保されていること(生の連環のなかの生)にほかならないと私は思う。川口は次のように指摘する。

本人に植え付けられてきた尊厳意識を塗り替えてもらい、生活上の優先順位を入れ替え、合理的で効率的な生活を望むようになったときに、初めて患者は紙オムツをはじめとする介護用品や医療機器の真価に目覚めていくのである。……ALSの人はみずからの身体をどうしたら健康で安全に維持できるかを学び直し、主体的に介護者を使いこなして初めて地域で暮らせるようになるが、障害者運動の活動家たちはこのようなことをこそ「自立」と呼んできたのである。なんでも自分が一人でできることを「自立」と呼ぶ健常者の定義とは180度異なる解釈だ。(128頁)

ALSの病は社会の病だ


やがてTLS(Totally Locked-in State=外眼運動系をふくめて臨床的に随意運動のすべてが麻痺してコミュニケーションがとれなくなるとされる状態)に至った母に対して、川口は「蘭の花を育てるように植物的な生を見守る」という表現を使い、その関係の双対性は極致に達する。

「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共存することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。……脳死とか植物状態と言われる人の幸福も認めないわけにはいかなくなってしまった。……ここからは簡単だった。患者を一方的に哀れむのをやめて、ただ一緒にいられることを喜び、その魂の器である身体を温室に見立てて、蘭の花を育てるように大事に守ればよいのである。(200頁)

そして、川口は、毛細血管の雄弁さを語り、こう訴える――「『ただ寝かされているだけ』『天井を見ているだけ』と言われる人の多くは、無言でも、常に言いたいこと、伝えたいことで身体が満たされている。ただ、そばにいてそれを逐一、読み取る人がいないだけなのだ」(186頁)。

こう見てくると、「健常人」もまた、その生の尊厳を自ら置き去りにしていることに気づかされる。ひとつやふたつの価値で測ることができるほど生は単純なものではないのに、そうした単純な価値を内面化して、生を貶めている。したがって、「非健常人」の尊厳を取り戻すことは「健常人」の尊厳を取り戻すことでもある。ALSの病は社会の病なのだ。

今回の書籍


逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズ ケアをひらく)
川口 有美子
医学書院
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グローバル資本主義との付き合い方(1)―ナショナルな政治過程との連環
―2012年11月03日

towardsaninclusivedemocracy.jpg
2009年の政権交代が失敗に終わったとされるなか、鎖国主義に根ざしたナショナリズムに対する支持とともに、ポピュリズムを背景とした新自由主義(グローバリズム)が再び台頭し、両者の二項対立図式が語られるようになっている。しかし、両者は見せかけの対立に過ぎない。

かつて、スウェーデンの社会学者ヨラン・テルボーンは、「グローバル化の歴史とともに今日のナショナルな諸過程こそが、今日のグローバルな不平等を生み出している最有力の生産者である」と喝破した。テルボーンは、国際貿易と国内経済格差の間に相関関係が認められないことを実証し、不平等を生み出すナショナルな政治過程に目を向ける(Therborn, 2001,“Globalization and inequality,” Soziale Welt, 52)。

また、オルダーソンとニールセンも、1970年代以降のOECD諸国におけるグローバル化のインパクトを分析するなかで、グローバル化は確かに産業の空洞化を加速化させ、労働者の交渉力を弱め、非熟練労働者の賃金を削減させ、労働市場の競争を激化させていると主張する一方で、これらの不平等の拡大がグローバル化とは直接結びつかないものである可能性を示している。つまり、海外直接投資(FDI)や途上国からの輸入よりも、国内における農業力人口の転換、労働市場の規制緩和、社会福祉の水準の切り下げの方が強いファクターになっているというのである(Alderson and Nielsen, 2002,“Globalization and the Great U-Turn,” American Journal of Sociology, 107(5):1244-99)。

日本国内でも労働者の賃金低下がグローバル化の必然的な帰結であるかのように喧伝されているが、実際のところ、賃金が下がっているのは、国際的な価格競争に巻き込まれている製造業よりむしろ、サービス産業であることが明らかにされている(児玉・乾・権, 2012,「サービス産業における賃金低下の要因―誰の賃金が下がったのか」RIETI Discussion Paper Series)。グローバルな経済格差の進展は、今に始まったことではなく、南北問題であると同時に、途上国内・先進国内の問題でもあり続けているのだ(Fotopoulos, 1998, Towards an Inclusive Democracy, Cassell)。

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とはいえ、ロサンゼルスの都市社会学者マイク・デイヴィスが『スラムの惑星』(原著2006年、邦訳2010年)のなかで指摘したように、ナショナルな政治経済過程がグローバルな経済過程と密接な関係にあることも事実である。グローバル化の進展が、金融最優先の経済構造をナショナルな次元でも生み出し、世界の不平等と不安定さを高めていることには十分な証左がある。ごくわずかの資産家と金融資本にとってのみ、今は「黄金の時代」なのである(なお、マイク・デイヴィス自身について、原著刊行時に書いた拙稿「都市社会学の貧困または奢侈―マイク・デイヴィス著、Planet of Slumsを前にして」『社会学研究』80号を参照されたい)。

けれども、後に詳しく見るようにグローバル化の光の側面を見れば、グローバル化そのものを全面的に否定する鎖国思想に組みすることはできない。冒頭に見たテルボーンもまた、短期的な資本移動の自由化が途上国に対する最も甚大な不平等をもたらしていることを明らかにしつつ、たとえば医薬品のグローバルなフローが「世界の平等化の最も重要なプロセス」になっているとも指摘している。

したがって、むしろグローバルな要因とナショナルな要因双方に対する民主的な規制(レギュラシオン)の可能性を追求していくことが求められよう。しかし、それは既存の空間秩序のなかでも可能なのだろうか。

デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義―その歴史的展開と現在
ここで参照すべきなのが批判的地理学の第一人者であるデヴィッド・ハーヴェイである。ハーヴェイが『新自由主義』(原著2005年、邦訳2007年)などの著作のなかで明らかにしているように、今日の経済グローバル化(貿易・金融の自由化、グローバル企業の成長、金融・情報・専門職のフローの流動化)には、時空間の圧縮やグローバルな連関といった空間編制と密接なつながりがみられる。そして、そこから生まれる、トポロジー的、ヘテラーキー的に構造化された新たな経済空間は、従来の国家による領土ベースの規制が働いた世界システムとはまったく異なるものとなっている。したがって、今日の資本主義の問題は、トランスナショナルな資本家階級、ワシントン・コンセンサスの陰謀とか、マルチ・レベル・ガバナンスなどといった次元を超えているようにもみえる。

ここで、都市社会学が注目するのがヘテラーキー型のミクロなレギュラシオンの可能性であるが、ただし、既存の言説とは異なり、私は、そのレギュラシオンをナショナルな政治過程に基づくマクロな規制と両立させる道筋を見出していきたい(というより国家をアクタンとみなすアクターネットワーク論の視点からすれば、ミクロ/マクロの図式は人為的なものに過ぎない)。

まずは、従来の規制/レギュラシオン論をみることから始めよう。(次に続く)

今回の書籍


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