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なぜリスクは過小/過大に評価され、専門知が貶められるのか―メアリ・ダグラスのリスク文化論
―2013年03月24日

前回の記事では、リスクをめぐる制度的専門知の問題点を指摘するなかで、制度的判断に再帰性を担保するためには、ローカル・ノレッジ(民衆知)を組み込み普遍/特殊の二分法を乗り越えることが重要であることを論じた。

ただし、明らかに非科学的なバイアスにさらされ、リスクを過大に評価する「素人の知」を組み込むことがあってはならない。それでは再帰性が働かず、社会が成り立たない。専門家の権威は適切に尊重されなければならない。制度的専門知にバイアスが存在しうることを言っておきながら、素人の知もまたバイアスが存在し、当てにならないことを指摘しないのは、ウィンらの社会学のナイーブな点である(というより、そうしたバイアスを積極的に擁護する論者もいるのだが……)。

リスク・ガバナンスを考えるには、人びとの認識や思考をインプリシットなレベルで枠付ける「文化」をその射程に入れなければならない。リスクをめぐる言説は、個々人の合理的選択によるもののみではない。社会構築主義的なリスク論の嚆矢をなした英国の人類学者メアリー・ダグラスは、リスク・ガバナンスにおけるコンフリクトが「文化」のコンフリクトであることを論じた。

ダグラスは、単に素人の無知蒙昧を嘲るのではない。なぜ一般の人びとは、どのようなリスクに満ちているのか、どの程度のリスクに満ちているのか、どのようにリスクに対応すればよいのか、といったことに対する専門家の知見に同意することができないのか。そして、なぜ、不確実性を認められなかったり、不確実性を過大評価してしまうのかを探究するのである。

非難(責任押しつけ)のメカニズムとしての「タブー」と「リスク」


Risk and Blame

Douglas (1992) Risk and Blame
そもそも、メアリ・ダグラスは、一般には、1966年の『汚穢と禁忌』(Purity and Danger)のなかで、「穢れ(pollution)とは、社会の秩序法則を乱すものに無根拠に貼られるレッテル」にすぎないことを初めて論じたことで知られる。ただし、この当時はまだこの「穢れ」の観念と「環境汚染」(pollution)への懸念との関連を見出してはいなかった。しかし、1970年以降、自身の象徴人類学的知見をリスク論に広げている。

「産業化以前の西洋では、キリスト教が罪の語を用いていた。・・・・・・大きな罪は共同体に危険をもたらす、あるいは罪人の身近な人を苦しめるとされていた」(Douglas 1990: 25)。しかし、現代社会の人びとは、もはや罪の教義によって責任を負わされるようなことはない。代わりに「リスク」の概念が、現代の言説に適した科学的雰囲気をまとう一方で、非難(責任押し付け)のメカニズムとして機能しているという。
産業界や行政の専門家がなぜ新たなテクノロジーの安全性を市民一般に納得させることができないのかを理解する必要性が高まっている。しかし、実のところ人間の一般的傾向はその正反対であり、人間は生まれつき臆病なのではなく、むしろ恐れを知らず、危険が実際にあることを教え込むことは困難なのである。ところが、その危険が権力的なマイノリティによって無力なマジョリティに負わされているとされる場合になると、「危険とは無縁だ」という主観的な感覚は起こらない。この違いが起きるのは、他者に負わされたリスクに対する態度が政治的であるからだ。……リスク認知が問題なのではなく、欺瞞や搾取に対する憤慨が問題なのである。そうであるならば、私たちはなぜ非難の態度をとるのかを理解する必要がある。(Douglas 1985: 33-4)

リスクの認識と受容は、危険の原因が誰にあると誰によって認識されているのかという問題と切り離すことができない。かくして、ダグラスは人類学者として、村に不幸が起きた際にウィッチクラフトにその原因を帰す未開人とのアナロジーを見い出すのである。

ダグラスによれば、ある文化のなかでは、決まった非難のパタンが見られるという。このパタンが、災難への恐れを通じて、集団に対する個人の意識を枠付けるメカニズムとして機能する。ここで、三つの非難のパタンが区分される。犠牲者への非難(未婚の母、病人など)、近親者への非難(障害児の親、不良少年の母親など)、外部の敵や力への非難(先祖、自然など)の三つである。

問題はどのような危険が最も不安を呼ぶのかではなく、不運に対してどのような説明が、さまざまな種類の社会において最も効果的に機能するのかにある……さかんに喧伝されたリスクは一般に道徳原理を正統化することにつながることがわかっている。(ibid.: 60)

そして、現代日本では、それが不当であるケースでも、医療の世界では医療者がウィッチクラフトとなり、教育の世界では教師がウィッチクラフトとなっている。なぜなのだろうか。

リスク認知を歪ませる文化の3類型


Risk and Culture
Douglas and Wildavsky (1982) Risk and Culture
ダグラスは、リスク認知を歪ませる種々の文化的バイアスを明らかにするために、かなり理念化した類型論を展開している。ダグラスによれば、以下にみる類型のうち、平等主義的なエンクレイブが、現代社会の歪んだリスク認知をもたらす最たるものである。ひとつずつ、具体的に見てみよう。

第一は、閉鎖的、ヒエラルキー的、伝統志向の社会であり、ここでは個人の欲求が共通善よりも下位にあることが教え込まれる。「道徳に厳しく人びとを手なずけるコスモロジー」(Douglas 1985: 62)のなかで、罪の重みに耐え切れなくならないように、贖いの儀礼が用意されている。そして、「ヒエラルキーはその厳格な手続きにいたずらにこだわる。その結果、あまりに物事に遅速であり、新たなテクノロジーに対してあまりに盲目的になってしまう。新たな危険の存在を信じることができない。大きなリスクがその制度閾を超えた地平に現れてはじめて認識されることになる」(Douglas and Wildavsky 1982: 101)。

第二は、個人の競争を重視する社会である。「個人主義は交換システムを第一の価値としてかたく信じている。このシステムを脅かす個人はいかなるものであれ罰せられる」(ibid.: 101)。さらに、個人主義は自らの競争の犠牲者に注意を払うことはほとんどない。したがって「この社会に危険なテクノロジーを委ねることはできない」(ibid.: 101)。

さらに、ダグラスは第三の文化形態として平等主義的エンクレイブ(ボランタリー・アソシエーション)を提示し、官僚制(ヒエラルキー)や市場(個人競争)とは異なる独特なものとして位置づける。

言葉の上でのコミュニティとは、個々人の生活の支えとなり、コミットメントを境界付ける集団のことである。ボランタリー・アソシエーションはコミュニティ形成の萌芽的、不完全、未完成の試みである。すなわち、ボランタリー・アソシエーションとは、その成員が、たいていの場合、年月を経て特に何かを成し遂げたというよりは、団結しているという点に誇りを持つことができるアソシエーションである。(Douglas 1985: 95)

この第三の文化型をダグラスはとくに問題視する。トクヴィルと異なり、ダグラスは、平等が権力の空白を埋めるためにもたらされたイデオロギーとみなす。「平等とは動揺した群衆の中であらゆるものがごたまぜにされることであり、評価、名誉、社会的地位なしに、人びとの目は小さな賞を求め、小さな不平等に憤る」(ibid.: 96)(こうした非難を読むと「何だこの偏った見方は」と冷笑したくなるが、ひとまず目をつむろう)。

ダグラスの分析は、以上の社会類型における公共財の配分の問題の考察に向かう。そこでは、オルソンの「共有地の悲劇」論が修正される。ダグラスによれば、公共財は特定の組織文化においてのみ生産することができるという。すなわち、ダグラスが市場やヒエラルキーと呼ぶレジームにおいて可能になるものである。なぜなら個々の成員はその公共財から利益を得ることができると期待できるからだ。

しかし、ボランタリー・アソシエーション(エンクレイブ)の場合、「フリー・ライダー問題」に対処しなければならない。平等主義レジームの場合、代価を支払わない者が集合的に生産された公共財から利益を得ることを妨げられないからだ。そこで、ボランタリー集団のメンバーは、供給を制限するために、インサイダーとアウトサイダーに厳格な境界を引くことになる。このために、ボランタリー集団は「非難の戦略」の背景に特定の「コスモロジカルな筋立て」を得る必要がある。つまり、外部の現実性の低いリスクを過度に強調することで、その厳密な境界を維持することになる。境界によって組織の凝集性を保つために必要となるのは、外的な脅威によって引き起こされる不可逆的な変化に対する恐怖なのである。

こうしたエンクレイブは集権的というよりは周縁的な組織形態(セクト)である。「セクトには中心を支えるのに十分な責任も安定性もない」(Douglas and Wildavsky 1982: 120)。セクト主義的政策は、中心/中央に対する非難と結びつく。あらゆる権力者と社会的階層の上位者が引きずり下ろされる。

〔メアリ・ダグラスが〕主張しているのは、環境・生態系破壊をめぐる今日の熱い議論が、現代のアメリカにおける教会-セクト間のコンフリクトの基本形態を織りなしていることである。近代世界において、科学は説明と恐怖の源泉として神に取って代わった。科学技術は悪魔であると疑いもなく認められ、自然は清浄そのものの象徴となって、汚染から守られる。ちょうど、神がセクト主義者によって腐敗と俗物から守られてきたように。(Robbins 1983: 188)

以上の議論からリスクの類型が示される。ある社会集団の文化的性格はその集団の選択するリスクと類似性を持つ。リスク領域は以下の三つに区分される。

1.社会政治リスク:内部の逸脱(とくに人間の暴力)によって、あるいは犯罪、外部の軍事的敵対者によって引き起こされる社会構造の危険。←ヒエラルキー制度的文化
2.経済リスク:経済危機。経済的失敗のリスク。←市場個人主義文化
3.自然リスク:自然、身体の生態学的危機。テクノロジーによるリスク。←セクト的「辺境」文化

以上のうち、最初の二つのカテゴリーが「中心」を構成する。これに対して辺境文化は危険な「周縁」を構成する。ダグラスの議論では、この第三の文化は構造の脱組織化を導くものであるとされる。

しかしながら、今日では、第一、第二のリスク文化の成長も見られ、実際のリスク(不確実性)も増加している。グローバル市場化、国民国家の危機、個人化プロセスの進展のなかで、社会構造の危機と経済リスクが増大しているのである。

したがって、現代社会のリスクは、ダグラスらの言うように中心に対立する「エンクレイブ」や「辺境」の出現によって説明される「認知の歪み」には限られない。現代の社会秩序の脱組織化をもたらすエンクレイブのみを非難すれば良いとは言いがたい状況にあることを認める必要もある。

「リスク」を確率として認識できない


ある文明における一連の宗教観念が論理的に一貫しているようにみえるのは、矛盾の無い論理的規則を単純に適用しているためではない。宗教観念が論理的に一貫しているようにみえるのは、第一に、一貫した制度形態によっているためであり、第二に、一連のアナロジーがそれによって構成されているからである。こうしたアナロジーは、言葉を広げ、一つの文脈から別の文脈へと論理的な操作をすることで一貫性を創りだしているのである。そして、アナロジーが重なり合い、繰り返されて、混乱が起こりそうな経験に対して複雑な秩序化を課しているのである。(Douglas 1985: 426-7)

Risk Acceptability
Douglas (1985) Risk Acceptability
リスクは、罪やタブーと同様に、一つの文化的基調(カルチュラル・モチーフ)であり、多義的な意味が、複雑な社会のさまざまな制度的状況のなかで繰り返され、その状況のなかで起こる出来事の責任を配置する手段をもたらす。リスク観念が十分に打ち立てられているところでは、その観念が「わだち」(groove)として働き、社会的議論はそのわだちを流れ、そして、わだちを深くしていく。

しかし、リスクの文化基調はその意味を変えている。そもそも「リスクの語は得失の確率を示すニュートラルな語である」(Douglas 1990: 23)が、19世紀のリスク観念は利益と結びつき(人の嫌がるリスクを引き受けることで、企業家が利益を上げることが正統化された)、そして今日では、一般にコストと結び付けられている(つまり、リスクは被害に対する補償の支払いを正統化するものである)。

リスク概念は政治の前面に立っていてもおかしくなかったのである。なぜなら、確率論的思考は、〔17世紀以降、〕産業、現代科学、哲学に浸透しているからだ。・・・・・しかしながら、政策立案の中心概念であるリスクは、確率計算に関するインプリケーションは多くない。・・・・・・今ではリスクは危険を意味する。高いリスクとは、危険が大きいことを意味する。(Douglas 1985: 23-4)

現代医療の世界におけるリスク概念は純粋に確率計算によるものであるが、一般の人びとのあいだでは必ずしもそうではない。たとえば、0.5%の確率的事象が自分に降り注いだとき、「なぜほかならぬ自分なのか」についての説明が必要なのである。ここに大きな溝がある。

「上からの」リスクについて、ヒエラルキー文化のなかであれば全体の利益を考え納得でき(ただし、前回見たようにそこにはアンビバレントな心理が伏在する)、個人主義の文化であれば自己責任として納得することができる。しかし、平等主義的エンクレイブの文化に強く染まっている場合、文化基調(わだち)に基づき、平等性を否定する他者である科学や大企業、官僚組織に責任を押しつけることになるのである。

このように、(危険とほぼ同義で使われる)リスクはウィッチクラフトと同様の責任押し付けの装置としても機能しているのである。リスクは明らかに世俗的であり宗教的ではないけれども、アナロジカルに見れば、宗教的な観念がかつて果たしていた機能(キリスト教の文化基調としての罪、ポリネシア文化のタブー)と同じ機能を果たしているのである。

多元的なリスク文化を認め、再帰性を確保する


Risk, Environment & Modernity
Douglas and Ney (1998) Missing Persons
以上のような視点は、実践的にはどのような意味を持ちうるのであろうか。カール・デークによるリスク認識の分析をみてみよう(Dake 1991)。この分析では、サンフランシスコのベイエリアの市民に対してテクノロジーへの態度を聞いたものである。この調査の仮説は、リスクへの態度はパーソナリティに拠ったものであるというものである。つまり、

〔平等主義者は〕非平等的な社会は貧民を搾取するのと同じように傷つきやすい環境を痛めつけていると信じているだろう。ヒエラルキー主義者、個人主義者はちょうどこれとは反対である。すなわち、両者はテクノロジーに対して楽観的なのである。ヒエラルキー主義者はテクノロジーによる危機が専門家によって管理されうると考えており、個人主義者はテクノロジーを際限ない個人の冒険心の乗り物として捉えているからである。したがって、ヒエラルキー主義者と個人主義者は平等主義者よりも環境やテクノロジーの危機に関して不安は小さいと考えられる。(Dake 1991: 66)

調査の結果、平等主義者は36の「全体社会への関心」(societal concerns)の項目と正の相関が見られたが、「権威への尊重の喪失」はその例外であった。これは、平等主義者は他の文化よりも社会に対して批判的で、社会制度を維持することには関心がなく、リスクを嫌っていることを示すものである。ヒエラルキー主義者と個人主義者の技術上、環境上の危険に対する不安は平等主義者よりも小さい(「核戦争への恐れ」は相関関係が一番弱く、「テクノロジーと結びついた危険」、「環境汚染」については負の相関が見られた)。反対に、ヒエラルキー主義者と個人主義者は「デモや抗議」、「市民的不服従」、権威の欠如に対して不安を感じ、「市民的自由の欠如」に関する不安は小さい 。

「リスクの問題は文化的バイアスのリトマス試験である」(Douglas and Ney 1998:140)。ヒエラルキー的な傾向が強くなり、命令体系が強くなると、明白な危険までもが認知されなくなる(JCOの臨界事故ではウランを含む溶液をステンレスバケツで扱っていたことが問題となった)。

エンクレイブ文化のバイアスが強まると、リスクに関する議論は激しく果てしないものになる。人びとは臆病なように見え(実際は臆病なのではないが)、小さなリスクを過大評価する。リスク論争は政治論争なのである。

もちろん、良心の声が声高にそして明確になることは良い事であり、損害を招いたものが説明責任を有することは正しいに決まっている。相争いあう政治集団の間にバランスがとられること、そして妥協と和解のために話すこともまた正しい(ibid. 1998: 141)。しかし、リスクに対する文化論的理解は、現在の言説状況に対する大きな問題を投げかけるものである。ダグラスは悲観的な結論を見出すほかないのである。

私たちの文化は、文化的コンフリクトのリスクを最小限にするように、そしてこのコンフリクトを表に出すことを避けるように動いており、文化が本質的に対抗的であることが分からないように管理している。この無知の中で、私たちは意図せざる争いを引き起こそうとしているのである。すなわち、意図せざる侮蔑を行い、暴力を喚起し、報復の要求に耳を傾け、深刻な内乱への道を進む恐れの中にいるのである。(ibid.: 141)

問題は一つの文化的バイアスに偏ることなのであり、ダグラスが問題にしているのは、平等主義的な「エンクレイブ」にとくにその傾向が強いことであり、そして、現代社会が平等主義的エンクレイブの文化基調を刻み込んでいることである。

ダグラスらはベックのような理論家を広い意味でのセクト主義の役割を与えるだろう。ダグラスらはこれら三つのリスク文化はリスクの実在論的観念をもつという。その中でももっとも実在論的であるのが辺境からのセクト主義者なのである。ダグラスらにとって、ベックのようなコメンテーターは辺境からその立場を確保し、それをリアリズムに作り変えている存在なのである。(Lash 2000: 52)

結局のところ、ダグラスがセクトないし平等主義的エンクレイブを批判するのは、ヒエラルキー的な計算合理性が完全に正しいからではない。エンクレイブが自身の文化的バイアスや文化の多元性を否定し、再帰性を否定していることに由来しているのである。リスク・ガバナンスには、科学的リテラシーはもちろんのこと、多元的な文化的バイアスを調整する再帰性を担保することが必要なのだ。

今回の書籍


汚穢と禁忌 (ちくま学芸文庫)
定価:¥ 1,575
売上ランク:125546位
レビュー平均:5.05.0点 (1 人がレビュー投稿)
5.05.0点 メアリー・ダグラス『Purity and Danger』の
出版日:2009-03-10
出版社:筑摩書房
ページ数:438
by 通販最速検索 at 2013/03/24

参照文献

  • Dake, Karl, 1991, ‘Orienting Disposition in the Perception of Risk: An Analysis of Contemporary World Views and Cultural Biases’, Journal of Cross-Cultural Psychology 22(1): 60-81.
  • Douglas, Mary and Aaron Wildavsky, 1982, Risk and Culture: An Essay on the Selection of Technical and Environmental Danger, Berkeley/London: University of California Press.
  • Douglas, Mary, 1985, Risk Acceptability According to the Social Sciences, New York: Russell Sage Foundation.
  • ―, 1990, 'Risk as a forensic resource', Daedalus, special issue on 'Risk', Fall, ll9(4): 1-16. [=Risk and Blame, 'Risk and justice']
  • ―, 1992, Risk and Blame: Essays in Cultural Theory, London/New York: Routledge.
  • ― and Steven Ney, 1998, Missing Persons, a Critique of Personhood in the Social Sciences, Berkeley: University of California Press.
  • Lash, Scott, 2000, ‘Risk culture’, in Barbara Adam, Ulrich Beck and Joost Van Loon (eds), The Risk Society and Beyond. Critical Issues for Social Theory, London: Sage.
  • Robbins, T., 1983, review of Risk and Culture, Journal for the Scientific Study of Religion 22: 188-9.
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ローカル・ノレッジはなぜ重要なのか―原発事故とリスク社会論の盲点
―2013年03月23日

原発事故以後、ローカル・ノレッジ(民衆の知、市民の知)に対する日本社会のネガティブな評価が逆に高まっているのではないか。「(ときに「放射」とも形容される)素人は余計な口を挟まず、専門家集団が自律性を高めればよい」、「たいして専門的経験のない一般市民の意見を等しく取り上げれば社会は崩壊してしまう」、「市民は、数ある専門知(行政知)のなかから、自らのローカルな状況に適ったものを選択していけばよい」といった具合に。しかし、そうした態度をとり続ける限り、「原子力村」に象徴される日本社会の構造的問題は解決しないだろう

この記事では、ローカル・ノレッジに対するネガティブなまなざしは、(自覚的であれ無自覚的であれ)いずれも自然/社会(文化)、専門知/民衆知という誤った近代的二分法に由来するものであり、ローカル・ノレッジの擁護は、決してロマン主義的な理想論や反権力的なイデオロギーによるものではないことを明らかにする。

この種の誤りは、実のところ、社会学における正統派リスク社会論も引きずっているものであり、上記の二分法を超えるリスク・ガバナンスの実現ににこそ、一般市民のパニック状況からの脱却とともに、正統性を有する新たな政治秩序形成の可能性があるのだ。

正統派リスク社会論に対する文化論的批判


Risk, Environment & Modernity
Lash, Szerszynski and Wynne eds. (1996) Risk, Environment & Modernity
リスク社会論といえば、まずは、ウルリヒ・ベックとアンソニー・ギデンズの名が挙げられるだろう。しかし、彼らが問題にしているのは、あくまで「実在」のリスクが高まっていることであり、その焦点は専門知にある。そして、後述するように、後期近代に入り複数の科学知の競合状況が生まれていることを問題にする一方で、科学知の「実在論(リアリズム)的」概念化を批判することはない。

その結果、再帰的近代化をうたっておきながら、一般市民の有する再帰的プロセスに「十分な」光を当てずに済ませている。一般市民レベルにおけるギデンズの再帰性概念は、親密圏、対人関係のものに限られている。そして、スコット・ラッシュやブライアン・ウィンらが論じているように、非専門的な公共領域における集合的な民衆知(公共知)の有する再帰性の意義が見過ごされている(そして、日本では、一部の社会学者を除き、ラッシュやウィンらに通じる議論はほとんどなされていない)。市民社会における再帰性とはなにか?

多くの社会学の議論では、「前期近代における専門家システムへの自動的信頼」という命題が自明視されてきた。つまり、前期近代人は盲目的に「偉い人の言うことに間違いはない」と考えてきたというのだ。たとえば、ギデンズは、後期近代における再帰性の由来を、専門家の権威そのものに対する一般市民の疑義にではなく、グローバル化と脱埋め込みに対する私的な対応(すなわち「選択機会の増大」)に求めている。前期近代における自動的信頼から(simple modernity)、複数の専門知に対する一般市民の積極的な選択的信頼へ(reflexive modernity)という、おなじみの図式が描かれるわけである。

しかし、専門家システムに対する自動的信頼が社会全体を覆っていたことなどない(Wynne 1987, 1990, 1994)。常に一般市民の間には心理的アンビバレンスのなかでの再帰的依存があったのだが(「すべてお任せするほかない」状況下で、その内面は常に揺れ動いている)、ギデンズはそれを非再帰的な信頼と混同しているのだ(Wynne 1987)。つまり、ギデンズは、初期近代における専門知の非競合的状態を一般市民からの信頼と同一視し、後期近代における再帰的過程を、新たな生活不安(専門知のゆらぎ)に曝された一般市民による選択の結果だとしたのである(Wynne 1992)。

ギデンズらの議論に対する反証は数多くある(Welsh 1993, 1995)。たとえば、英国における反原発の声は1970年代に環境保護運動の高まりとともに生まれたという一般的認識があるが、実際には1970年代以前から全国的、国際的な政治的反対があり、決して原子力に対する一般市民の自動的な信頼はなかった(そうした疑義の声は「無知蒙昧」として制度科学から排除されていただけである)。

したがって、ここで視点の転換が起きる。第一に、市民の不信は、専門家レベルの反論、議論の後に続いて生まれるのではない。逆に専門家レベルの反論こそが、一般市民の間の懐疑の存在を背景に促され、成立し、影響力を獲得しているのである。我々は、水俣病のケースなどを考えてみればよいだろう。

第二に、市民の表立った不信・反対が存在しないからといって、市民からの信頼が存立しているわけではない。専門知の制度からの市民の排除や専門家制度に対する市民のアンビバレントな態度は、必ずしも行動にあらわれるものではない。非制度的な形式の経験・知識が制度的専門知から抹殺されてきた例は枚挙にいとまない。

というのも、制度的専門知の内部では往々にして既存の社会/自然秩序が維持されるメカニズムが働くからだ。とりわけ複雑性の高い状況下では、新たな知見を織り込もうとすればするほど不確実性が高まってしまう。したがって、制度的専門知は、既存のリスク評価を固定化してしまう(原発推進のように!)。複雑性すら還元主義の対象となり、単純なものからスタートし徐々に複雑なものに対応するという決定論的メカニズムが働く。「始めてみなければ何事も進まない」

しかし、制度的専門知の設定する基準には往々にして科学外の文化的要素が入り込んでいる(原発推進の他にも、遺伝子組み換え食品における商業文化の影響について、Wynne 2005a)。制度科学は常にアド・ホックな決定論によっており、そして、不確実性は「科学」の名によって排除されてきたのだ。科学者や官僚は、「偶有性があることを示すと、確実性を求める一般市民は、新たな試みのすべてを頭から否定してしまう」というのだが。

専門家システムへの依存は積極的信頼ないし自動的信頼と同一視するべきではない。あくまで「仮の」信頼でしかない。初期近代のように(単一の)専門知、制度科学に依存している場合でも、その専門知、制度科学との関係における再帰性は常に働いている。科学と一般市民の信頼との関係はギデンズの想定よりもはるかに複雑であり、その中心にはアンビバレンスがある。信頼は、依存の経験や排除の可能性、主体性の欠如を背景に形成されている。ただし、依存や主体性の欠如は合理化されるために表面化しない。「おやっ」と思っても、その思いが社会的に表面化されることはない。

以上をまとめると、再帰的過程は専門知の競合から起こるのではなく、もっと再帰的な市民のアンビバレンスが常に存在してきた。したがって、非再帰的信頼→再帰的信頼というギデンズ的図式は成り立たない。

民衆や市民の知の再帰性の存在こそが科学ひいてはガバナンスの再帰性を保証することになる。ここにリスク・ガバナンスにローカル・ノレッジを組み込むことの社会学的意義のひとつがある。

さらなる意義―リスク・ガバナンスの文化的次元


Misunderstanding Science
Irwin and Wynne eds. (1995) Misunderstanding Science
ギデンズやベックはこう論じる。後期近代の産業社会は自らの生み出すリスクをコントロールすることができなくなり、その規模はグローバルに広がるため逃れることもできない。したがって、従来のガバメントによる制度的保証は有効ではなくなり、「個人の選択」の機会が増えるにつれ、存在論的不安が高まるのだと。

しかし、こうした議論は、新古典派的な合理的選択による経済人モデルに偏重している。ベックの場合、専門家に対する今日の一般市民の信頼の喪失は、「専門家に裏切られた」という思いに由来するとされるものの、それはあくまで合理的思考のモデルが前提となっている。ギデンズが問題にしている公共領域における専門知の競合もまた、合理的選択の視点からのみ捉えられている。

しかし、ポイントは、物理的なリスクの如何をとわず、こうした合理主義的言説を通すことによって、一般の人びとに規定的な人間/社会モデルを押し付けることになることだ(Wynne 1992; Irwin and Wynne 1995)。市民によるリスク認知はむしろ、(リスクをコントロールされるとされる)専門制度が信頼に値するのかどうかについての判断に合理的に基づいている。つまり大半のリスクは社会関係的である(Wynne 1996a)。

大半のリスクは実際には知的構築物であって、不確実性は計算可能な程度まで人為的に縮減されている。しかし、こうした「自然な」フレームをつくりだす社会的前提――つまり科学は客観的に真であり、個々の人間の意見は文化的なバイアスがかかっている――はほとんど認識されていない。そして専門的な「自然な」知識はインプリシットな社会/人間モデルを体現している。

この種の不確実性を考えると、存在するとされるリスクの大きさを評価することにとどまらないことが合理的であることになる。というのもそうした評価をおこなうことは、常により大きなリスクを持ち込むことになるものであるからだ。したがって、責任があるとされる制度の(将来にわたる)信頼性、能力、独立性を問う方がより合理的である。こうした制度的次元は、物質的リスクのスケールに影響を及ぼすからだ(検査機関が厳格に検査をしなければ、リスクは高まる!)。

したがって、市民によるリスク認知には、社会制度に対する判断という要素が絡んでくる。この判断に組み込まれているのが、生活上の価値を守るために、それら制度にどの程度依存するのか、そして、その依存がどのような意味を有するのかについての評価である。こうして、先に見た依存とその合理化の複雑性という問題に立ち返ることになる。

科学的知識(リスク分析)は、社会的価値次元を無視し、不確実性を自らの客観主義モデルに従って縮減し(Wynne 2005a)、確実性/客観性を装い、その結果、人びとの生活を規定する影響力を社会に及ぼす。そうした制度科学に依存することによる非物理的リスクを無視してはならない。このリスクの起源は、物理的リスクを直接コントロールするとされる制度科学の非人間的、非社会的な構制、規定にある。つまり、これらは基本的な社会的アイデンティティを脅かすものとなるのだ。人間同士が人間的につながれなくなるのだ。計算に係わる「外部」リスクよりも感情に係わる「内部」アイデンティティ・リスクが問題になる。人びとがパニックに陥るのも、その科学的リテラシーのなさを嘲笑する前に、その背景にアイデンティティ・リスクの問題があることを考える必要があるのではないか。

現実世界に対する専門知的仮定の妥当性に対するバナキュラーな知もまた、見過ごされがちな公共知の重要なカテゴリーである。公共知と専門知の分岐の要因は、みてきたような専門知の客観主義的フレームにあると考えられることから、専門知に対する公衆の疑義や反対は純粋に合理的なものではなく、その客観性が問題にされているのであって、徹底して解釈学的/文化的なものなのである。

ギデンズらは専門家システムによる生来の生活の意味を無化する介入を問題にする一方で、ウィンらは専門知が稠密でありながらも不十分な価値を持ち込むことを問題にする(科学の知は中立ではなく、意味を貧困化させ、一般人のアクセスを遮断する)。不確実だからこそ、関係の持続が生まれる。インフォーマルな「文化の政治学」が後期近代になって広がった理由を考えなければならない。

専門知(普遍知)/民衆知(特殊知)二分法を超えるリスク・ガバナンス


虚構の近代ブルーノ・ラトゥール(2008)『虚構の近代』
新たなガバナンスの可能性は、専門知自体の「全能性」を問題にすることから生まれる。ただし、「主観的な」公共知が「客観的な」専門知に勝っていると主張したいわけではない。しかし、先に見たように、非専門世界の知が知的に意味をなさないという前提も誤りである。

専門知と公共知の間に構築された境界は実際のところ流動的で相互浸透的である。ところが、科学的専門知は、厳密な基準化に構造的にコミットしているため、専門的な公共知を軽視し否定してしまう。さらに科学的専門知は、一般市民の抵抗を無知、非合理性に基づいたものとみなす傾向がある。

こうして、そうした排除と社会的コントロールとを行う専門家へ依存していることに対する一般市民のアンビバレンスが強まる。「リスク社会」における根本的なリスクは、文化的に平板な人間モデルへの非再帰的な盲信によって働く専門家システムに対する依存によって生まれるアイデンティティ上のリスクなのである。

リスク・ガバナンスが問題にすべきは、近代的ガバメント、経済、政治、科学技術制度の正統性であり、新たなガバナンスの秩序と権威を創出することがその課題となる。すなわち、新たなガバナンスとは、公共知の形式を疎外することなく正統性を高め、不確実性のなかから安定した権威を形成していくものでなければならない。

一般市民がガバナンスのプロセスに参加することで、必然的に普遍的な知と交接することになる。ローカル・ノレッジないしローカル・アイデンティティは、近代の非人間的な普遍知のオルタナティブではない。むしろ、人間性の次元を隠すことのない普遍知を支えることのできる集合的な自己概念をガバナンスによって形成する誘因となるのだ。

ギデンズらがいかに「サブ・ポリティクス」を提唱しても、民衆知/専門知の境界はその問題構制の対象外に置かれてしまっている。しかし、ラトゥールが言うように、科学が純粋に「近代的」であったことなどない(Latour 1992)。その本質は常に「近代」(開放性、普遍性)と「伝統」(閉鎖性、特殊性)の間の社会的緊張にある。ウィンが論じているように、ベックもギデンズもその議論の中心にあるのは「普遍」の構築と権威の回復にあるが、それは近代的「普遍」の再生産にとどまっている。リスク・ガバナンスとは、徹底して民主化の可能性を問うものなのである。

※次の記事「なぜリスクは過小/過大に評価され、専門知が貶められるのか―メアリ・ダグラスのリスク文化論」に続く。

今回の書籍


Misunderstanding Science?: The Public Reconstruction of Science and Technology
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虚構の「近代」―科学人類学は警告する
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参照文献

  • Beck, Ulrich, 1986, Riskogesellschaft: Auf dem Weg in eine andere Moderne, Frankfurt: Suhrkamp Verlag.(=1998, 東廉・伊藤美登里訳『危険社会―新しい近代の道』法政大学出版局.)
  • ―, Anthony Giddens and Scott Lash, 1994, Reflective Modernization, Cambridge: Polity Press.(=1997, 松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』而立書房.)
  • Giddens, Anthony, 1990, The Consequences of Modernity, Stanford, CA: Stanford University Press.(=1993, 松尾精文・小幡正敏訳『近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結』而立書房.)
  • Irwin, A. and B. Wynne (eds.), 1995, Misunderstanding Science, Cambridge: Cambridge University Press.
  • Latour, B., 1992, We Have Never Been Modern, London: Harvester Wheatsheaf.(=2008, 川村久美子訳『虚構の「近代」――科学人類学は警告する』新評論.)
  • Welsh, I., 1993, ‘The NIMBY syndrome and its significance in the history of the nuclear debate in Britain’, British Journal for the History of Science, 26(1): 15-32.
  • ―, 1995, Nuclear Power: Generating Dissent, London: Routledge.
  • Wynne, B., 1987, Risk Management and Hazardous Wastes: Implementation and the Dialectics of Credibility, Berlin: Springer.
  • ―, 1990, ‘Major hazards communication: Defending the challenges for research and practice, in H. B. F. Gow and H. Otway (eds.), Communicating with the Public about Major Accident Hazards, London: Elsevier, pp.599-612.
  • ―, 1992, ‘Misunderstood Misunderstandings: Social Identities and Public Uptake of Science’, Public Understanding of Science 1: 281–304.
  • ―, 1995, ‘Public Understanding of Science’, in S. Jasanoff, T. Pinch, G. Markle and T. Petersen (eds) Handbook of Science and Technology Studies. London and Beverly Hills: Sage.
  • ―, 1996a, ‘May the sheep safely graze?’ in S. Lash, B. Szerszynski and B. Wynne, Risk, Environment and Modernity, Loodon: Sage..
  • ―, 1996b, ‘The identity paradoxes of SSK: Reflexivity, engagement and politics’, Social Studies of Science, 26.
  • ―, 2001, ‘Creating Public Alienation: Expert Cultures of Risk and Ethics on GMOs’, Science as Culture 10: 445–81.
  • ―, 2002, ‘Risk and Environment as Legitimatory Discourses of Technology’, Current Sociology 50(3): 459–77.
  • ―, 2005, ‘Reflexing Complexity: Post-genomic Knowledge and Reductionist Returns in Public Science’, Theory, Culture & Society, 22(5): 67-94.
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