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なぜ制限用法の関係代名詞でも前から訳すべきなのか―虫の目の日本語
―2013年11月16日

これまで、ジョン・アーリを中心に、いくつかの学術翻訳(社会学系)を行ってきた(輸入学問に身を染めないように注意!)。大学院生時代には、翻訳に関して技術指南書を含めさまざまな書籍を読んだ。そうした書籍でまず強調されるのは、学校で学ばされる英文和訳と翻訳とはまったく異なるということだ。学校英文法に根ざしたいわゆる「直訳調」が日常の日本語からひどくズレていることは明らかであるが、なぜ、ズレてしまうのだろうか?

関係代名詞の訳し方?


ここでは、関係代名詞の訳し方を取り上げよう。学校で学ばされる英文和訳の場合、制限用法は「後ろから」訳し、非制限用法は「前から」訳せとなる。たとえば、

・I know a restaurant that serves delicious pasta.
(パスタの美味しいレストランを知ってるよ。)
・I like the restaurant, which pasta is delicious.
(そのレストランが好きなんだ、パスタが旨いんだよ。)

のように、後者の「非制限用法の関係代名詞は、先行詞の説明や理由を付けるもの」であり、そして、両者の違いを理解していることが(教師に!)明確に伝わるように訳すべく、制限用法は「後ろから」訳せ、非制限用法は「前から」訳せとなる。

制限用法の関係代名詞でも前から訳す


しかし、あくまでこの訳し方は便宜的なものに過ぎない。そもそも、後ろから訳すということ自体が、英文を英文のまま理解するという原則から離れてしまっている(英語話者は後ろから意味を理解しているわけではない)。「前から訳せ」は、何も関係代名詞の非制限用法に限った話ではなく、翻訳の基本である。したがって、ある程度の長文になると、制限用法でも「前から訳す」方がうまくいくことが多い。

私が院生時代に目を瞠かされた三好弘『すぐつかめる英語翻訳のコツ』(タイトルは温いが良書である)でも、「コンマがあるないにかかわらず、前から訳していい」(p.113)として、以下のような英文と試訳が挙げられている。

I was tired of the man and his thought that had so long occupied me.
〔直訳〕私は長い間、私をひきつけたその人と思想にあきた。
〔訳例1〕私はその人と思想にあきあきした。というのは、そんなに長い間私の頭の中をいっぱいにしていたのだから。
〔訳例2〕その人と思想は長い間私をひきつけていたが、もういやになった。

Here is another riddle which educators might profitably investigate.
〔直訳〕ここに教育家が有益に研究できるもう一つのナゾがある。
〔訳例1〕ここにもう一つのナゾがあるが、教育家がそれを研究したら有益かもしれない。
〔訳例2〕これもまた一つのナゾで、この点を教育家が研究したら寄与するところ大だろう。

後ろから訳した「直訳」が噴飯物であることは一目瞭然だ(ただし何でも前から訳して良いわけではない。先行詞の内容を厳密に制限している場合、「~であり、これは~」式に単純に訳すと意味が通らなくなる場合がある)。

なぜ違和感を感じるのか


学術翻訳では、学校で教わる英文法に根ざした英文和訳型の「直訳」を高くみる風潮があったらしいが(いまだにそんな翻訳書を見かけることもあるが……)、「直訳」すべき対象は、英文法の構造(構文)などではなく、原著の意味内容であるはずだ。原著者が日本語話者であるとしたら、どう日本語で書くのかを考えて訳すべきである。

それはともかく、ここで考えたいのは、(構文通りであるにもかかわらず)なぜ後ろから訳す直訳調に違和感を感じるのかである。もちろん、単に語順通りに情報処理がなされないからということもあるだろうが、ここで参考になるのが、金谷武洋の日本語論である。金谷によれば、英語のような主語構文は、主体が上から眺めていく神の目からの構文であるのに対して、日本語は、地面を虫が這っていく、虫の目からの構文なのである。

kanayatakehiro.jpg
『季刊iichiko』113(特集 金谷武洋の日本語論)p.10
つまり、右図にあるように、英語のような主語構文は主語である「Taro」が頂点に立ち「クリスマスツリー型」に末広がりになっていくのに対して、日本語の場合、主語にあたる「太郎」が「家」や「ピザ」と並列に並んでいるにすぎない「盆栽型」になっている。主体ではなく、状態の表出(コト)が核をなしている。

山本哲士もまた、「述語意志」による場所論を展開するなかで、金谷の議論をこうまとめる。

英語では、モノとモノとの関係、他動詞文における主客の区分が重要になる。……明確な輪郭をもったモノを、コトからとりだして、その間に行為者=主語とその対象=目的語の関係をつくりだす。わが身を、状況から切り離しコトをモノ化する……。虫の目は、地上を這いながら探察的かつ発見的に物事が叙述される。……神の目の主語言語は、状況から切り離された地平からまるで他人事のように高みの見物をする。(山本哲士『哲学する日本』p.153)

かくして、「わたしは、子どもたちにいじめられている亀を助けました」というよりは、「亀が子どもたちにいじめられているのを助けました」となる。後者の文は「わたしは」が省略されているのではない。わたしに「わたし」は見えていないのである。そして、前者は制限用法の関係代名詞の訳し方そのものである。

神の目は翻訳不可能である。神の目から理解するのであれば、原書を読むほかない。日本語翻訳とは、神の目を虫の目から読み解き直す営為である。そのために語学能力は必要であるが、しかし、表層的な語学能力の習得に満足してはならない。主語的構文では消えてしまっている述語的な表出性をも追究していかなければならない。

今回の参照文献



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