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まなざしの地獄―メラニー・フェネル『自信をもてないあなたへ―自分でできる認知行動療法』
―2012年10月06日

自信をもてないあなたへ―自分でできる認知行動療法
自分に自信を持てず消極的な人生を過ごしている人間に対して、「前向きになろう」とか「ポジティブに考えよう」とかいったお気楽なアドバイスがなされることが多い。しかし、「ネガティブ・シンキング」から脱却するために希求されるべきは、そうしたお気楽な「ポジティブ・シンキング」ではないようだ。

本書『自信をもてないあなたへ―自分でできる認知行動療法』Overcoming Low Self-Esteem)は、オクスフォード大学の精神科医メラニー・フェネルが1999年に出版し、今日では、英国における自助(セルフ・ヘルプ)による認知行動療法の古典として位置づけられている。

つまり、本書では、自己評価の低さや自己批判の強さが認知の歪みとして捉えられる。そして、その歪みがどのようにして生まれてきたのかを自己認識し、そして、その克服を自らの手で行うための道筋が体系的に示されているのである。認知行動療法について学んでおきたいと思い何冊かの本を手にしたが、なかでも本書は、うつ病や不安障害といった精神疾患の問題を切り離しても有益なものであると感じた(実際のところ、正常と異常とは連続線上につながっているのだろうが)。そこで、その主なポイントを私の解釈とともに簡単に紹介したい。

低い自己評価が生み出す「生きていくためのルール」



メラニー・フェネル
メラニー・フェネル
(Oxford Mindfulness Centre)
いかに低い自己評価を持とうとも、人は生きていく。そこで、その低い自己評価の「正しさ」をくつがえさずに、しかし、そんな自分にあまり不満を抱かずに生きていくべく、人は独自の「ルール」を設定することになる。

たとえば、過去(とくに子ども時代や思春期)の人生経験により「自分は駄目な人間だ」という見解(最終見解)を持つに至った場合、「もっと優秀にならなければならない」という結論が導かれ、完璧主義が人生のルールとなる。こうして設定される高い基準や、失敗や批判を怖れる気持ちは、常に高いレベルを追求するモチベーションへとつながり、結果として、仕事面で大成功を収めることにもとながる。

しかし、そのために、いつまでも自分の成功を喜べず(自分を認めると仕事へのモチベーションが失われる(と思っている)からだ!)、仕事ばかりの生活となり、身近な人間関係や余暇を犠牲にせざるを得ず、常に緊張した窮屈な日々を過ごすことになる。

あるいは、過去の人生経験により「自分は人に愛されない」という見解を持つに至った場合、「期待されることをすべてやらなければ、人に受け入れられない」、「自己主張をすると人から相手にされなくなる」という人生のルールが導かれる。こうして設定される自己犠牲的、献身的な気持ちは、常に高い道徳や倫理に従おうとするモチベーションとなり、結果として、社会との軋轢を生じさせることなく穏やかな生活が送れるかもしれない。

しかし、そのために、いつまでも自分そのものが「ある誰かに」愛される存在にはなれず、自分自身の気持ちを見失い犠牲にし、自己主張もできない乾燥した日々を過ごすことになる。

こうした「生きていくためのルール」によって、人は一時的にではあれ、低い自己評価を押さえつけることができる。しかし、

ただ、それでは、いつまでたっても問題は解決しません。なぜなら、完璧であること、誰からも愛され認められること、……など、叶えられるはずのない要求をそれは突きつけてくるからです。幸せはほんのいっときです。(63ページ)

無理な要求に応えきることができず、自分自身に対する否定的な見解が確認されると、自己批判的思考が頭をもたげ、低い自己評価が呼び覚まされる(「やはり自分は駄目な人間だ」など)。そして、生きていくためのルールの「正しさ」が再確認され、強化されることになる。

自己批判的思考と闘う


そうした自己批判的思考は、学習によって獲得された習慣であり、かならずしも自分についての真実を反映するものではないという。そこで、まずは、そうした自己批判的思考の「歪み」を認識し、それと闘うことが認知行動療法の出発点となる。本書では、自己批判的思考の歪みを発見するためのポイントとして、以下の点が挙げられている。
  • 結論を急ぎすぎていないか

  • ダブルスタンダードを使っていないか
    近しい人が同じ問題を抱えて相談にやってきたら、自分はどう反応するだろうか。

  • 「白か黒か」思考に陥っていないか

  • たったひとつの出来事をもとに、自分の全人格を糾弾していないか
    自分がひとつ素晴らしいことをしても、それで自分の全てが素晴らしいとは夢にも思わないくせに、ひとつの欠点や失敗で、すぐに自分を駄目な人間だと決めつける。

  • 自分の短所ばかりを考えて、長所を忘れていないか
    自分を駄目だと思う人間は、極めて用心深く有能な「内なる検事」を抱えているようなものだ。それに対抗する「内なる弁護人」、そして、何よりも「内なる判事」を育てることが大事だ。検察側から出された証拠のみに基づき断罪するのではなく、あらゆる証拠を考慮し、公正でバランスの取れた見方をしてくれる判事である。

  • かならずしも自分の責任でないことで自分を責めていないか
    もし同じことが誰か他の人に起こったことなら、自分はどう判断するか?

  • 完璧であることを自分に求めていないか

そして、こうしたポイントにしたがい、自己批判と闘い、バランスの取れた思考を取り戻すための方法論(「自己批判的考えと闘う記録シート」)が提示される。さらには、自分を受け入れるための「活動日誌」というアイデアが示される。

そのうえで、自分がもっている「生きていくためのルール」が何であるのかを発見し、そのルールを変えるとともに、ルールを形成させてきた自分自身に対する否定的な最終見解を明らかにする方法が具体的に示される(「下向き矢印法」)。下向き矢印法自体は認知行動療法のオーソドクスな方法であるようだが、セルフ・ヘルプの観点から見れば、本書の記述はかなり実践的であると感じた(具体的には本書を参照されたい)。

自分を高く評価するなんてはしたない!?


いずれにせよ、ここまできてようやく自らを肯定的に評価する新たな最終見解を形成する下地ができあがる。しかし、ここでこう考えてみたくなる。すなわち、自分を高く評価しようものなら、自分はたちまち鼻持ちならない我がまま勝手な人間に成り下がるのではないか? 価値あることを成し遂げられなくなるのではないか? はしたない人間になるのではないか? と。そんな思いを見透かしたかのように、フェネルはこう指摘する。

でも、忘れないでください。人間らしい弱さや欠点を忘れ、変えたい、あるいは改善したい面を忘れ、そんなものは存在しないふりをしろと言っているわけではないのです。この本は、前向き思考の力を説く本でもないし、非現実的なほど自分に対して肯定的になりなさいと言っているのでもありません。あなたの弱点や欠点を、人間一般に対する好意的な見方の中に組み込んで、「完璧」よりは「及第点」を目指すように後押しする見方、バランスのとれたゆがみない見方を獲得するための本なのです。(219ページ)

かくして、自分自身に対するそれまでの歪んだ最終見解を突き崩し、ほんとうに「正しい」最終見解と生きるためのルールの構築に向けての方法が示される。

その基本は、これまでの最終見解を支えてきた「証拠」に対して、別の解釈ができないかを探ることにある。すなわち、
  • 現在の窮状と精神状態(落ち込みや無気力)
    →その原因は、自分の能力や適応力が足りないだけなのか。

  • 自力で処理できないという経験や事態
    →自力で処理できることは大事だが、援助を求めることは悪いことか。自分に援助を求める人間がいた場合、あなたはその人を弱い人間だと決めつけるか。

  • 過去の過ちや失敗
    →過去の過ちや失敗をもとに今の自分を判断するのは公平なことか。一つ良いことをしたからといって完璧な善人であるとは思わないくせに、一つの過ちだけで自分が根っからの愚かな人間であると信じてしまう。自分の行為と自分自身とを混同してはならない。

  • 欠点や欠陥
    →ほんの一面に過ぎない欠点や欠陥をもとに自分の全人格を判断するのは公平なことか。

  • 身体的あるいは器質的特徴
    →自分の持っている肯定的な資質の多くは、自分がこうあるべきだ(やせているべきだなど)という固定観念とは関係ないのではないか。

  • 自分と他の人との違い(優劣)
    →誰かの何かが優れているからといって、その人間が人間としてあなたより上ということにはならない。人間そのものはほとんど比較不可能である。

  • 過去または現在の、他の人のあなたへの態度
    →他の人があなたに不快な態度を取るのは、あなたの人間性のせいなのか。人の態度で自分の価値を判断するのは意味のないことだ。

  • 自分が責任を感じている他の人(子どもなど)の行為
    →その人の行為に、あなたはどの程度の影響力を持っているのか。

こうして、それまでの証拠に対して別様の解釈ができるようになると、古い最終見解の歪みに気づき、新たな最終見解を作ることができる。たとえば、「私は悪い人間だ」→「私は立派な人間だ」、「私は人には受け入れてもらえない」→「私は人に受け入れられる」といった具合に。しかし、ここに至るまでには、何週間、何か月という探索が必要になる――しかし、そのための具体的な方法論が本書には示されている。

さらには、この新たな最終見解に辿り着いたとしても、それを支える証拠がない。そこで、今度は逆に、それまでの最終見解の直接的な反証となり、新たな最終見解の裏付けとなる証拠を集める作業、そして、その正しさを確認する実験が必要になる(しかし、このプロセスは、それほどの時間はかからないという)。

まとめ――心を開いて心を守る孤独を得る


自分に自信を持てない人間は、不安や悲観的な思考から、逃避や完璧主義などといった自己防衛(本書の言葉で言えば否定的な「生きていくためのルール」)を講じてしまう。そうして、チャンスを逃し、難問を避け、人間関係はうまくいかず、業績も上げられず、あるいは、成功を収めたとしても、それが本来の自分の力によるものであると認めることができない。悲しい自己正当化がどこまでも続けられる。

本書に従えば、そんな自分の心をほんとうに守るために必要なことは、まずは、そうした自己防衛をもたらすメカニズムを理解し、自分自身を見つめ直すことである。過去のネガティブな体験は事実ではない。そのときのひとつの意見に過ぎない(さらに、時間論的に言えば、現在と切り離された客観的な過去などは存在しない!)

その上で、信頼している人に対して、自己防衛の柵を取り払って自分をさらけ出し、自分から接近し、自分のことを話し、あるいは、自分のために休むなどの新たな行動に出ること。そして、その結果を自分で検証しながら、新たな「生きていくためのルール」を作り出していくことだ(信頼に値しない人の言動などはことごとく唾棄してよいだろう。ただし、実際のところ、お互いに先入観を取り除くことができれば、信頼に値する人がほとんどだろう)。

人間は孤独であるが故に悩むのではない。リアルなネットワーク、想像上のネットワーク、バーチャルなネットワークで幾重にもつながれた人びとのまなざしのなかで自分を見失っているのだ。そうした「まなざしの地獄」(見田宗介)のなかでは、逆説的にも、自分の心を開いてはじめて自分の心を守る孤独を得ることができるのだろう。

今回の書籍


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なぜ病院から「追い出された」と感じるのか―宇都宮宏子編『退院支援実践ナビ』
―2012年09月05日

宇都宮宏子編『退院支援実践ナビ』
友人や知人から、病院から退院する際、「追い出された」という話を聞く。なぜそうした事態に至るのか? 病院内の医療提供体制のみに目を向けた近視眼的な回答をするならば、こうだろう。

すなわち、日本は、医療費抑制政策を背景とした、先進諸国と比較した場合の絶対的な医師不足、病院職員不足がみられ、低密度医療が展開されてきたために、今日の急性期医療の需要に対応しきれなくなってきている。そこで、近年、急性期医療機能の集約化を進めることで、急性期医療の効率的な提供体制の確立が目指されている。その結果として、急性期病院は急性期の治療のみを行うことになっている。

かくして、在院日数の短縮が進み、退院の時期が、患者・家族の考えるような「治療終了」ではなくなっている。すなわち、急性期の入院非適応となり、地域や他医療機関での治療・療養が可能になった時を指すようになっているのである。したがって、ときとして、患者・家族は病院から「追い出された」という感覚をもつことになるが、それは制度上やむを得ないことだ。そもそも、これまでの日本の在院日数が長すぎたのだ――

以上の背景認識自体は正しい。しかし、「制度上やむを得ないのだから、患者・家族の不満は不当なものだ」と考えるのであれば、それは間違っている可能性がある

急性期の治療は終了しても……


そもそも、急性期病院の治療は、とくに高齢者の場合、治療後も、高度な医療提供や看護・介護を受けないと生活が送れない状況となってしまうことが少なくない。たとえば、

(1)医療の高度化によって長期延命が可能となり、生命維持のために、気管切開、人工呼吸器、経管栄養といった侵襲度の高い医療処置を受けたために、自宅復帰や施設入所が困難となるケースが挙げられる。人工呼吸器の取り外しや経管栄養の中止は、尊厳死をめぐる議論と関わっており、一度導入すると中止するのは容易でないのが現状である。

(2)入院生活が長くなると、長期伏臥により認知症の進行を含む廃用症候群が生じることがある。廃用症候群とは、「医療安全」と「安静第一主義」のもと、長期の安静伏臥により、身体活動量が低下することで引き起こされる心身機能の二次的な障害である。1週間の伏臥で筋力は15~20%低下し、その回復には1か月かかる。さらに、長期伏臥によって、筋力低下のみならず、関節拘縮や心肺機能低下、起立性低血圧、静脈血栓症、尿路感染症、誤嚥性肺炎、褥瘡(床ずれ)なども引き起こされる。

(3)高齢者の場合、疾患が慢性化しやすく、合併症や後遺症も生じやすいことから、退院後も継続した治療や医療管理の必要なケースが多くなる。前述の在院日数の短縮がそうしたケースの割合を高めている。ところが、患者・家族は治療のポジティブな面を強く見てしまう傾向があり、かならずしもこのことを理解した上で治療を受けていない。

病院内は、高度な医療管理と医療安全のために均質化された「非日常」の空間であり、ときとして、患者は生活の自律性を失い、受け身の医療が展開されてしまう環境にある。つまり、患者や家族は治療を受ける客体としての役割を引き受け、非日常にある病気や死のことを自分のこととして主体的に受け止める環境にはなく、生の自律を奪ってしまう危険性があるのだ。

命は助かったけれども、生の自律が失われたのであれば、真に生/生活を救ったことにはならない。もちろん、こう言ったからといって、人工的な延命のすべてを否定するつもりはない――人や物や場所とのつながりのなかで積極的に生きるという意志が失われることを問題にしているのである。ただし、高齢者の場合、必ずしも治療によって元の状態に戻れるわけではない。

そこで、患者・家族が、心身機能が低下した状態を受容し、新たな生活を主体的にイメージし、構築していくことで、はじめて「追い出された」という感覚に至らずに済むことができる。そして、ここで重要になるのが、退院支援の役割である。

患者・家族に寄り添う退院支援とは



宇都宮宏子
「心臓が剣山」の宇都宮先生(公式サイトより)
退院支援をめぐっては、2006年の医療法改正で、退院後の調整が努力義務化されて以降、一般に、病院から在宅や施設への移行の際には、病院の退院調整部門がそのマネジメント機能を担う部署として位置づけられている。しかし、退院調整とは異なり、退院支援は、介護サービスへつなぐといったマネジメントだけを行うものではなく、患者・家族に寄り添う病棟の「文化」にまで関わるものである。

退院支援の第一人者である宇都宮宏子によれば、退院支援は「生活の場で継続的な医療を入院中に組み立てる」という考え方が重要であるという(宇都宮先生は、先日、本学部と県医師会の共同事業「退院支援部署応援プロジェクト」の講師としていらっしゃり、その心だてに大いに感化された)。

かつては病院内での生命維持、医療の質が最優先され、退院後の生活は退院直前までほとんど考慮されてこなかった。そこで、宇都宮は、生活の場に戻るとき、「いま提供している医療は必要なのか」「在宅で継続できるのか」という視点から優先度を考え、生活の自立・自律を第一に、医療を組み立てるという発想を取り入れることになったのである。

具体的に、宇都宮は以下の3段階からなる退院支援プロセスを掲げている(1~2段階は病棟看護師が主体的に関わり、第2~3段階で調整が必要な局面になって、はじめて退院調整看護師やMSWが前面に出ることになる)。

第1段階では、退院支援が必要な患者の把握(スクリーニング)がなされ、外来での入院申込時、あるいは入院48時間以内に行われる。入院申込時の場合は、入院や手術に関する簡単なオリエンテーションを実施するとともに、入院前の生活状況、家族状況、介護体制、住宅環境を把握し、退院調整看護師が退院時の患者の状態像をイメージし、退院をテーマに話し合うのである。

ここで重要なのができる限り早期に行うことであるという。入院前や入院直後から、自宅に帰るという目的意識を共有することで、医療者とともに、病気と向き合う気持ちを維持していくことができるからである。

したがって、スクリーニングも、入院前の生活状況・生活背景だけではなく、入院目的、患者の病態、入院時のADLといった病態関連も重視し、「病名・病態から、退院の頃の患者の状態をイメージする」ことが必要になる(当然、その際には、医師等とのチームによるアセスメントが行われる)。

第2段階は、患者が病態を理解し受容するための支援と、自宅でできる医療・看護を患者・家族とともに考え、自立を目指す支援を行う段階であり、入院3日目から退院までに行われる。これは、患者・家族が、病態を理解したうえで、実現可能な退院後の生活像を主体的に設計するための支援である。

そして、入院中の医療やケアについても、生命維持最優先ではなく、患者が望む自立した生活を送ることを可能にする退院後の医療管理と生活・介護を頭に置いて行われることになる。とくに、重装備の在宅療養は危険性が高く、また過度に在宅医療に依存する生活は、患者や介護を行う家族にとって無理のかかることも多く、逆に生活の自立を遠ざけてしまうことにもなるからだ。

そして、第3段階で、ようやく、前2段階を踏まえて必要性が明らかになってきた在宅療養の環境を整えるサービス調整を行うことになる(従来の退院調整)。がん患者や高齢者で、看取りを迎える可能性のある場合、退院前カンファレンスを実施し、急変への対応についても話し合い、治療の限界や看取りのイメージを患者・家族と医療者・介護者とが共有することで、はじめて無理のない在宅療養も可能になるのである。

(以上、冒頭に掲載した宇都宮宏子編『退院支援実践ナビ』医学書院、2011年による。また、『これからの他院支援・退院調整』『病棟から始める退院支援・退院調整の実践事例』などの他の書籍も優れて実践的であり、疾患別の事例や各病院の先進的な事例が取り上げられており、勉強になる。)

生‐死をつなぎ、人間性の維持・回復をもたらす医療


さて、以上のような退院支援と退院調整の質の差をあらわすのに適した概念が、厚生経済学者アマルティア・センのケイパビリティ(潜在能力)の平等という概念であろう。ケイパビリティとは、本人の主観的な選好や選択とは別に、ある一つの目的を達成するために採用できる手段の多様性のことである。つまり、ケイパビリティの平等とは、生きる手段の多様性が万人に広く開かれていることを指す。退院支援もまた、罹患により生きる手段が限定され、生の可能性を自発的に狭めてしまうなかで、その多様性を開き、当事者の主体性を取り戻そうとする実践であるといえるだろう。

ハイデッガーを引き合いに出すまでもなく、死とはひとつの瞬間でも境界でもない。生と死は浸潤し合い、つながりあっている。死なき生はなく、そして、生なき死はない。とするならば、病にある者の生を肯定することが、その肯定的な死の前提になければならない。

「まわりに負担をかけるから早めに死にたい」と言う高齢者も多い。「無意味な延命」が問題視されるなかで、「自己決定による死」が強調されることもある。しかし、中立的な立場から自己決定を強いるだけであれば、それは、「迷惑だから死んでもよい」と言うのと同じではないか。

生/死の二分法を離れるならば、「無意味な延命」の対極にあるのは「自立・自律的な生」の構築であるはずだ。障害を抱えていようと、残された時間が少なかろうと、「どう死にたいか」を決定するためには、「どう生きたいか」が問われなければならない。

経済的な貧困であるだけであれば、就労機会を提供したり生活保護を適用すればよいかもしれない。心身に異常があるだけであれば、必要な医療や介護を提供すればよいのかもしれない。住む場所・施設がないだけであれば、サービス付きの高齢者住宅を整備すればよいのかもしれない。

しかし、そうした場面に登場する高齢者たちは、それだけでは解決できない問題を抱えていることが多い。すなわち、死の外部化によって成り立ってきた今日の〈都市〉の論理からの自身の乖離によって生まれる失望と諦念による自発的な社会的周縁化、社会的排除(社会からの「追い出し」)という問題である。

こうした自発的な社会的排除に至るプロセスにみられる負のスパイラルを断ち切るために医療が立たすべき役割は大きい。すなわち、心身の維持・回復はもちろんのこと、生と死の分断ではなく、その混和のなかで、人間性の維持・回復をもたらすという役割をも有しているのである。

退院支援機能の充実に向けて


先に触れた篠田道子先生・宇都宮宏子先生の講演会のなかで、私は、宇都宮先生に対して、「そうした退院支援を実現していくために、退院支援(調整)部署には、どの程度の人員配置が必要であると考えるのか」と質問した。宇都宮先生からは、「病棟のナースが退院支援に対する意識を持って取り組むことが必要で、そうなれば、退院調整看護師は1人いればよい」といった回答を頂いた。

ただ、山形県内の実情をみると、退院調整看護師が複数名配置されている病院(日本海総合病院は4.5名!)は、こうした退院支援に熱心に取り組んでいるのに対して、1名しか配置されていない病院(県立病院など)は、調整の業務で手一杯といった状況である。したがって、私は、是非とも体制強化をしていただきたいと考えている。

つまり、退院支援に対する文化を各病棟や外来で醸成するためにも、まずは、退院支援に対する高い意識を持った退院調整看護師を複数名配置することが必要であると考えるのだ。そして、院内全体で退院支援の態勢が整ったうえで、退院調整看護師を1名に戻せば良いだろう。

いずれにせよ、退院支援の文化が病院全体に広がることで、外来や救急、さらには、訪問看護ステーションとの連携も進み、看護部が総体として地域の医療・介護・生活の「つながり」を生み出す役割を果たすようになることを期待してやまない。

今回の書籍


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医療療養病床にかかる保険外費用(おむつ代、タオル代等)の実態と疑問
―2012年08月23日

ここ数日、首都圏の病院調査に出ていた。その際、ある急性期病院の熱意ある医療ソーシャルワーカーの方から、「このあたりでも療養病床は足りていないが、しかも医療療養病床の入院費用が高いので、経済的な理由で転院できない患者も多い。個人的なつてで、わざわざ、東北地方の病院を紹介したこともあった」という話を聞いた。

医療療養病床とは、主として慢性疾患の中長期的な治療が必要な高齢患者が入院する病床だ。山形県では、この療養病床が極端に少なく、各病院の退院調整部門と患者・家族が困っているのだが、費用面での問題を聞く機会はそれほど多くない。多くても1か月平均12万円以内に収まる病院がほとんどだからだ。

ところが、上記の医療ソーシャルワーカーの方が勤める首都圏の病院の主要転院先は、月16~18万円が平均で、20万円を超えてしまう病院もあるという(差額ベッド代は除く)。どうして、全国一律の診療報酬でありながら、これほどの差が生じているのか?

何にいくらかかっているのか?

まず、入院医療費そのものが平均で1か月50万円以上かかる。ただし、これは保険適用(1割負担)であり、高額療養費制度も利用できるため、自己負担額の上限は一般に1か月44,400円である。

また、65歳以上の高齢者が医療療養病床に入院した場合は、食費と居住費の一部を自己負担することになっている。その額は1日につき1,700円(食費1食460円、居住費1日320円)で、1か月約52,000円の負担となる(ただし、低所得者には所得の状況に応じて負担軽減措置があり、難病、脊髄損傷等の患者で医療依存度の高い患者は23,400円になる)。

以上の二つを合計すると、1か月あたりの保険内自己負担額は約96,400円(難病等患者の場合は、67,800円)となる。ここまでは全国一律である。さらに、重度心身障害者医療費助成制度の対象者や所得水準の低い患者の場合、負担額はさらに減額される。

ただし、この他に、病院によって、「おむつ代」や「病衣代」など、日常生活のサービスにかかる費用負担が保険外で発生する(つまり、全額自費負担)。この保険外負担の徴収(内容と金額)は、各病院が独自の裁量で決めることができる。

とはいえ、少なくとも山形県内では、保険外負担は多くない。(安価な市販の)おむつの持ち込みも認められているため、ほとんどの病院の平均的な患者は、毎月の自己負担額が12万円以内に収まっている。

例外的におむつの持ち込みが認められておらず、おむつ代が発生する病院でも、毎月の自己負担額は12~13万円程度(保険外費用は3万円程度)である(難病等の患者であれば10万円を切る)。この病院を例に、自己負担費用を一覧にして示す。

医療療養病床入院時の自己負担額

このように、山形県内の医療療養病床の保険外費用は高くても平均3万円程度だ。これに対して、以下にみるように冒頭の首都圏の病院の保険外費用は安くても6万円以上かかる(このデータは、転院時の説明の際に用いられる標準的な費用であり、これ以上の額がかかる場合もあれば、これ以下で済む場合もある。「その他」は、使い捨て手袋代やエプロン代など)。

首都圏某急性期病院の転院先となる医療療養病床の保険外自己負担額(1か月)

他の急性期病院からは詳細なデータを得ていないが、筆者の調査の限りでは、首都圏内で大きな地域差はないようである。二木立が1992年に行った老人病院等に対する保険外負担実態調査の首都圏平均値は9万4,593円であり(1991年度の厚生省調査「老人病院保険外負担調査」では4万4,600円!)、当時と実態は大きく変わっていない。ちなみに二木の調査では、首都圏が最も高く、以下、近畿(7万127円)、東海(7万181円)と続き、逆に東北は2万9,778円であった(『90年代の医療と診療報酬』)。

なぜ保険外自費負担の差が生まれるのか?

ただし、金額が高いことだけをみて、その病院が「金儲けをしている」などと論難するのは適切な態度ではない。まず、療養環境、衛生環境の質を考えた場合、ある程度の費用がかかるのも当然のことである。たとえば、慢性期医療の質の向上を進めている日本慢性期医療協会(日慢協)の武久洋三先生の掲げる「よい慢性期病院50ヶ条」のなかには、次のような項目がある。

  • 良質なおむつを使用し夜間交換を減らして患者さんの負担を少なくしていること
  • 病衣と日常着、リハビリ着など適切に更衣がなされていること
  • お世話料などの余分な保険外負担金を請求しないこと
(武久洋三『よい慢性期病院を選ぼう』、2012年)

ちなみに、かつて、こうした保険外自己負担は、「お世話料」「施設管理料」「雑費」など、患者・家族からみれば不透明なかたちで料金が徴収されることもあった。そこで、厚生労働省は2005年の通知「療養の給付と直接関係ないサービス等の取扱いについて」(初出は1987年通知「保険(医療)給付と重複する保険外負担の是正について」)で、「お世話料」などのあいまいな名目は認めず、「徴収できる費用は実費で、社会的にみて妥当適切なものとし、患者や家族に対し、明確かつ懇切に説明し、同意を確認のうえ徴収すること」とした。そして、徴収する場合は、受付窓口や待合室などの見やすい場所に、内容と料金を掲示するよう義務づけている。

とはいえ、地域間、病院間でこれだけの格差があるとなると、保険外の自費負担は本当に「実費」なのか、妥当なものなのか疑わしくみえてしまう。そもそも、上記通知で、清拭用タオル代、おむつの処理費用、おむつ交換や吸引などの処置時に使用する手袋代は、診療報酬で評価済みのため、実費請求は認められていない(二重取りになってしまう)。

そして、ある病院事務長は新聞取材の中で「価格設定は各病院の自由裁量。病院経営に必要な額から逆算して費用を算出している」、「談合ではないが、金額を含め、周りの状況を見て判断している」などと、実費以上のコストが含まれていることを暗に認めている。さらに、こうしたサービスを提供する病院寝具などを扱う業者の幹部は、「病院側が受けとる管理手数料は料金の20%」と明かし、病院間での費用差については、「同じサービスで料金が異なるのは、会社の信用上も好ましくないが、料金設定は病院裁量の部分もあるので」としている(『産経新聞』2008年8月18日、19日より)。

情報を共有しよう!

診療報酬は、医療にかかる各種コストを正確に反映していない全国一律の設定であり、しかも、療養病床関連の診療報酬はマイナス改定がなされてきた(たとえば「医療依存度が相対的に高くない」とされる医療区分1の患者はどうやっても赤字になるように点数設定されている)。その結果、土地代や人件費が高く経営が一段と厳しい首都圏の療養型病院は、患者から集める保険外負担で病院経営の帳尻を合わせるほかないことになる――しかし、そうであれば、「療養の給付と直接関係ない」はずの保険外費用のせいで、必要な療養が受けられない事態が発生していることになる。

ただし、診療報酬改定の基本資料である「医療経済実態調査」の結果をみると、療養型病院の経営状況は他の病院種別よりも良く、厚生労働省は報酬引き上げの必要性を認めていない。以上の結果は、あくまで全国平均値に過ぎない。大都市部と非大都市部とで損益率の差が見られなかったとすれば、大都市部の療養型病院が、やむをえず高額の保険外自費負担を徴収することで、診療報酬による評価が不十分な病院経営を成り立たせていることが明らかになるであろう。

しかし、そうしたデータが無い以上、これ以上のことは言えない。患者・家族にいくばくかの不満と釈然としない思いがあることだけは確かだ。

そこで、医療者と患者・家族のさらなる信頼関係の醸成のためにも、保険外費用と病院経営に焦点を当てた大規模調査を行い(かつての老人病院保険外負担調査のように実態から外れたデータが出ないよう、急性期病院の退院調整部門を対象にしてはどうだろうか)、以上の実態を明らかにし、患者が納得できる明確な基準を自主的に設定するとともに、コストに基づく診療報酬の設定を訴えるべきだ

今回の書籍


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親が70歳を過ぎたら読む本
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国立大学職員給与削減における医療人職員の扱いについて(中医協委員要望)
―2012年06月27日

中医協記者会見20120627嘉山先生20120627【写真】(上)記者会見の様子、(下)嘉山委員(m3.comより)
本日の中医協終了後、二号委員(診療側委員)全員と専門委員二名(日本看護協会の福井専門委員と日本放射線技師会の北村専門委員)とで「国立大学職員給与削減における医療人職員の取扱いに対する要望書」提出に関する記者会見が厚労省記者会会見室にて行われました(私は要望書の作成と記者会見のセッティングで勉強の機会を与えていただきました)。

この要望書は、政府が、今年5月の閣議後の閣僚懇談会で、(国家公務員ではない)独立行政法人や国立大学法人等の全職員についても平均約7.8%の給与削減を行い、給与削減相当額分を運営費交付金等から減額する方針を打ち出したことを受けて提出されたものです。

この給与削減の背景には、周知の通り、平成24年2月に成立した「国家公務員の給与の削減特例に関する法律」によって国家公務員給与削減(平均約7.8%)が実施されていることにあります。そして、多くの国立大学法人は、上記方針を受け、関連規定の制定などに当たり、7月から給与削減の実施に入る流れになっているのです。

他方で、平成22年度、平成24年度の診療報酬改定は、病院勤務医等の負担軽減・処遇改善が重点課題として掲げられて行われています。そこで、同要望書では、「国家公務員の給与削減特例の適用は適用として、診療報酬改定の精神にありますように、医学部ならびに附属病院に勤務する医療人職員に対しては種々の工夫により処遇改善の手当てをして頂けるよう要望」しているわけです。

会見の模様をm3.comの橋本佳子編集長の記事「国立大学の医師らの給与削減、「待った!」―中医協の診療側委員ら9人の連名で、各大学に要望」から引用させていただきます。

この要望の提案者である、全国医学部長病院長会議相談役の嘉山孝正氏は、「7月からかなりの大学で給与削減を実行する形になる。医療現場が本当に多忙な中、過去2回の診療報酬改定で病院勤務医等の負担軽減を実施したが、医療職では同じ業務を実施しているにもかかわらず、国立大学法人に勤務しているが故に、処遇が悪くなるのは問題」と指摘。その上で、オールジャパンで医療に取り組む必要性から、診療側7人だけでなく、日本看護協会と日本放射線技師会の専門委員2人も含めた形で要望を出したことに意義があるとした。つまり、何らかの対応を要望する対象は、医師に限らず、歯科医師、薬剤師、看護師、診療放射線技師など、国立大学法人に勤務するすべての医療職になる。

京都府医師会副会長の安達秀樹氏も、「給与削減という方針は既に決定されている。この政策を覆すことが必要」とした上で、直近の対策として「診療報酬改定は、病院勤務医等の負担軽減というコンセプトで実施している。いろいろなやり方があるので、具体的な対応をしてもらえないかという提案だ。給与削減で大学のスタッフを維持できるかという懸念がある。内政干渉と言われるかもしれないが、この施策自体が異例であり、まずは各大学に対応を求めたい」と説明。さらに安達氏は、今の国立大学法人の医療職が、臨床、研究、教育を担当しているにもかかわらず、他学部と同じ給与体系であるという問題もあるとし、医療職の給与体系を抜本的に変更することも必要だとした。

各委員も、異口同音に要望を支持。「日本医師会の会員の半数を占めるのが勤務医。その中で、国立大学に勤務する勤務医の処遇改善は重要であるという認識であるため、嘉山氏の提案を受け入れた」(鈴木邦彦・日医常任理事)、「一般病院か大学病院の勤務かで色が付くわけではない。中医協委員の立場から、処遇改善を要望する」(万代恭嗣・日本病院会常任理事)、「中医協で、時間かけて議論してきたことと、相容れない施策が打ち出されたことは問題」(堀憲郎・日本歯科医師会常務理事)、「国立大学には薬剤師も多数いる。チーム医療や、病棟薬剤業務などを積極的にやり、より良い医療を提供しようとしている最中にこの問題が出てきたため、処遇改善を求める要望に賛同した」(三浦洋嗣・日本薬剤師会常務理事)。

同様に2人の専門委員も、「看護職員の給与体系、勤務負担はまだ改善しなければいけないことが多々ある。それが十分にできていない中で、賃金が低下すると、離職が懸念され、現にそうした声が聞かれる、何らかの対策を講じていかないと、2025年の医療供給体制を見据えた場合、十分な役割を看護職員が果たせない」(福井トシ子・日本看護協会常任理事)、「チーム医療が重要課題だが、その推進のために、人員確保と処遇改善を進めていくことが必要」(北村善明・日本放射線技師会理事)と、それぞれ支持した。

実際に、大学の場合を見てみると、附属病院の経営は、多額の長期借入金を引き継いだ独法化以来、毎年の運営費交付金の削減と低水準の診療報酬設定により、悪化を続けてきました。そして、そのなかでも現場では変わることなく高密度で高度かつ良質な医療を提供し、かつ研究、教育を行ってきたことから、その「ひずみ」が現場の一人ひとりの職員に押し寄せられ、「崩壊」が間近に迫っていました(詳しくは下記をご覧ください)。

しかしながら、2009年の政権交代以降、わが国の診療報酬点数(保険診療に対する対価)を審議する中医協において、大学での高度医療に精通している嘉山孝正先生が加わり、精力的な議論が交わされ、そうした認識が広く共有されるようになり、平成22年度、平成24年度診療報酬改定では、「医療崩壊」の危機からの脱却を目指し、病院勤務医等の負担軽減・処遇改善等の重点課題のもとに、大学附属病院をはじめとする特定機能病院に対する重点配分がなされました。こうして、まずは当面の危機を回避しつつあるのが大学附属病院の現状です。

しかし、それでも国立大学附属病院の職員給与は一般的に他の医療施設や民間病院等に比べ水準が低いことに変わりはなく(医師であっても「教育職」扱いで文科系教員等と同様の給与体系)、医師をはじめ恒常的な職員不足が続いています。そうしたなか、直近の診療報酬改定の理念に反して、今回の方針による給与削減を一律に行えば、多くの有能な医療人材のモチベーションの低下と流出を招くことは必定です。

国立大学附属病院において安全・安心な高度かつ高密度の医療を最前線で支えているこれらの医療人材が流出してしまうことになれば、代替のきかない大学病院機能が大幅に低下し、国立大学附属病院を最後の拠り所にしている大勢の患者は甚大な不利益を被ることになります。さらには、研究、教育面でも重大な支障を来し、多くの国民に多大な影響を及ぼす全面的な医療崩壊が引き起こされかねません。

したがって、国立大学附属病院が、これからも引き続き国民の期待に応えるべく安心・安全で代替なき高度かつ高密度の医療を提供し、かつ教育・研究の使命を果たしてくために、今回の職員給与削減に当たっては、医学部ならびに附属病院に勤務する医療人職員に対して、種々の工夫により処遇改善の手当てをして頂くことが不可欠なのです。

したがって、私見ではありますが、今回の給与一律削減の方針はあまりに筋が悪いといわざるを得ません。ちなみに、私は医学部に所属していますが医療職ではありませんので、いずれにせよ、給与削減の対象になります。
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在宅医療(看取り)に対する東京と山形のリアリティの違い
―2012年06月23日

在宅医療の推進がある種の「国策」として掲げられるなか、平成24年度の診療報酬改定においても、在宅医療の充実が重点課題として挙げられました。
今後増大する医療ニーズを見据えながら、医療と介護の役割分担の明確化と連携を通じて、効率的で質の高い医療を提供するとともに、地域で安心して暮らせるための医療の充実を図る必要がある。
(「平成24年度診療報酬改定の基本方針」より)

この背景には、理念的には「脱施設化」(がん患者の方の在宅ホスピスなど)の流れがある一方で、現実的に「医療施設を死に場所とすることの限界」があります。

看取りの場所の確保が今後、必要

上図は、診療報酬を審議する中医協で、私たちも作成に協力して二号委員(診療側委員)が提出した「わが国の医療についての基本資料」(2011年5月18日)にあるものですが、病院・有床診療所のベッド数は限られていることから、医療施設での死亡数が一定であると仮定すると、2040年には約49万人の死に場所がなくなるというデータです。

かくして、在宅医療の充実が必須の課題として認識され、少なくとも東京では大きな異論は聞かれませんが、超高齢社会の先頭を走る山形の現場では、「いまさら、在宅での看取りと言われても」という声ばかりが聞かれます。

というわけで、実際に統計データを調べてみたところ、東京と山形での在宅医療に対する感覚の違いを裏付ける結果が得られました。ここでは、その一部をご紹介します。

まずは、自宅死亡率の推移をみます(ちなみに、厚労省の統計で「在宅等死亡率」の語が用いられる場合は、老人ホーム・介護老人保健施設での死亡が含まれます)。

自宅死亡率の推移

このように、山形県の自宅死亡率は、 近年、急速に減少し、直近では全国平均を下回っている一方で、東京都では、自宅での死亡率が増加していることがわかります。

絶対数で見ても同様です。

自宅死亡者数(指数)の推移

全国の死亡率のデータは、近年、平行線をたどっていますが、地域による差がかなりあることをうかがわせます。実際に、都道府県ごとの自宅死亡率を見たのが次の図です。

都道府県別の自宅死亡率(2010年)

このように、都道府県別にみると、自宅死亡率は、 南関東、近畿で高く、九州、中国で低いことがわかります。

そして、同一県内で見ても地域によって自宅死亡率は大きく異なります。以下は、山形県の場合です。

山形県内市町村別の自宅死亡率(2010年)

こうした地域差は、実際には、文化的要因、経済的要因、社会制度的要因(社会インフラ含む)が複合的に絡み合って生まれていると考えられます。そのなかで、国が制度的要因に目を向け、対応するという姿勢は、国の役割を考えれば間違いはありません。

しかし、こうした地域差に対応していくためには、各地域(都道府県)が、独自性と自律性を発揮する必要があります。山形であれば、急速に自宅死亡率が下がっているのはなぜか? 自宅で亡くっている方は、実際のところ、どの程度、幸せな死を迎えているのか? など、わたしたちは、今後、調査研究を積み重ね、そうしたリアリティを言語化していきます。
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がん患者の就労支援・社会復帰に関する調査結果
―2012年05月26日

嘉山先生
村上先生
【写真】嘉山教授(上)、村上教授(下)(m3.comより)
昨日、わたしたちの行った「がん患者の就労状況・社会復帰に関する調査」(山形大学蔵王協議会、山形大学医学部がんセンターと共催、研究代表者・嘉山孝正先生)の結果概要について記者会見が行われました。

ウェブで閲覧可能な各種メディアの報道をここにまとめます。

今年から始まる第2次がん対策推進基本計画でも就労支援対策が取り上げられるなか、本調査は、山形県内のがん診療連携拠点病院の協力を得て、がん患者・体験者の就労状況と社会復帰の実態を把握するために実施したものです(調査有効回答数1,163、有効回収率55.8%)。

具体的には、がん患者・体験者の職業やがんの病期・部位の違いを踏まえ、従来、必ずしも明らかにされてこなかった、がん患者・体験者の職業やがんの病期の違いによって生じている就労状況・社会復帰の多様性を浮き上がらせました。詳細な調査結果は、近く論文として発表されます。

以下、m3.comからの引用です。

嘉山氏はその〔=就労支援・社会復帰対策〕重要性を強調、「本人は社会活動ができる状態であっても、がんという偏見で仕事を辞めざるを得ないのは合理的ではない。今後は、患者が会社に仕事を継続できる状態であることや病状の見通しなどを説明するなど、医師も関与してこの問題に取り組んでいかなければいけない」と述べた。今後は、国会議員や全国の大学、医師会のほか、経団連などにも調査結果を配布し、がん患者に対する就労支援や社会復帰に関する対策の重要性を訴えていくという。

医療政策学教授の村上正泰氏も、「職業に応じて、罹患後の就業や社会復帰の状況には違いがある。きめ細かな対策を社会として考えていくことが必要。また診断時よりも収入が減少する人も多い上に、医療費の負担もかかる。金銭的な支援を望む声も数多く寄せられており、経済的な負担軽減に向けた対策も求められる」と考察した。
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