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SPSSのグラフやテーブル(図表)をきれいに貼り付ける
―2013年04月19日

SPSSで作成したグラフの野暮ったさについては改めて指摘するまでもない。しかし、せっかくチャートルックを直しても、WordやPowerpointに貼り付けてみると、(わたしのまわりだけかもしれないが)グラフの線や文字がぼやけてしまう(解像度が落ちる)。とくに印刷した場合はひどく、したがって、論文に掲載する図表などには使えずにいた。

それでも、かなりの手間をかければきれいに貼り付けることができるが、SPSSのグラフをそこまでして使う気にはならない。したがって、わざわざExcelなど別のソフトで描き直していた。

ところが、今回、新たにバージョンアップしたVer. 20を使ってみると、簡単かつきれいにWordやPowerpointに貼り付けることができたので、その方法を紹介したい。

1. 貼り付けたいグラフ上で右クリックすると「形式を選択してコピー」なるオプションができているので、選択する。
SPSS 形式を選択してコピー

2. メタファイル(WMF、EMF)をチェックして「OK」。この際、「デフォルトとして保存」にチェックを入れておくと、次からは、楽にできる。
WS000006.jpg

3. WordやPowerpointなどのOffice製品上で、「形式を選択して貼り付け」→「図(拡張メタファイル)」が選択できるようになるので、選択する。
WS000005.jpg
WS000007.jpg

すると、きれいに貼り付けることができる。どのバージョンからこの機能がついたのかは不明である(少なくともわたしが以前使っていたVer. 17にはない)。

ただし、インターネット上を検索しても、同様の悩みを抱えている人は見当たらない。そもそも解像度を維持したまま貼り付けられない状況が特異なのかもしれないが、「どうして自分だけが」と同じように苛ついている人の役に立つこともあるのではと思い、ブログに残しておきたい。

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なぜリスクは過小/過大に評価され、専門知が貶められるのか―メアリ・ダグラスのリスク文化論
―2013年03月24日

前回の記事では、リスクをめぐる制度的専門知の問題点を指摘するなかで、制度的判断に再帰性を担保するためには、ローカル・ノレッジ(民衆知)を組み込み普遍/特殊の二分法を乗り越えることが重要であることを論じた。

ただし、明らかに非科学的なバイアスにさらされ、リスクを過大に評価する「素人の知」を組み込むことがあってはならない。それでは再帰性が働かず、社会が成り立たない。専門家の権威は適切に尊重されなければならない。制度的専門知にバイアスが存在しうることを言っておきながら、素人の知もまたバイアスが存在し、当てにならないことを指摘しないのは、ウィンらの社会学のナイーブな点である(というより、そうしたバイアスを積極的に擁護する論者もいるのだが……)。

リスク・ガバナンスを考えるには、人びとの認識や思考をインプリシットなレベルで枠付ける「文化」をその射程に入れなければならない。リスクをめぐる言説は、個々人の合理的選択によるもののみではない。社会構築主義的なリスク論の嚆矢をなした英国の人類学者メアリー・ダグラスは、リスク・ガバナンスにおけるコンフリクトが「文化」のコンフリクトであることを論じた。

ダグラスは、単に素人の無知蒙昧を嘲るのではない。なぜ一般の人びとは、どのようなリスクに満ちているのか、どの程度のリスクに満ちているのか、どのようにリスクに対応すればよいのか、といったことに対する専門家の知見に同意することができないのか。そして、なぜ、不確実性を認められなかったり、不確実性を過大評価してしまうのかを探究するのである。

非難(責任押しつけ)のメカニズムとしての「タブー」と「リスク」


Risk and Blame

Douglas (1992) Risk and Blame
そもそも、メアリ・ダグラスは、一般には、1966年の『汚穢と禁忌』(Purity and Danger)のなかで、「穢れ(pollution)とは、社会の秩序法則を乱すものに無根拠に貼られるレッテル」にすぎないことを初めて論じたことで知られる。ただし、この当時はまだこの「穢れ」の観念と「環境汚染」(pollution)への懸念との関連を見出してはいなかった。しかし、1970年以降、自身の象徴人類学的知見をリスク論に広げている。

「産業化以前の西洋では、キリスト教が罪の語を用いていた。・・・・・・大きな罪は共同体に危険をもたらす、あるいは罪人の身近な人を苦しめるとされていた」(Douglas 1990: 25)。しかし、現代社会の人びとは、もはや罪の教義によって責任を負わされるようなことはない。代わりに「リスク」の概念が、現代の言説に適した科学的雰囲気をまとう一方で、非難(責任押し付け)のメカニズムとして機能しているという。
産業界や行政の専門家がなぜ新たなテクノロジーの安全性を市民一般に納得させることができないのかを理解する必要性が高まっている。しかし、実のところ人間の一般的傾向はその正反対であり、人間は生まれつき臆病なのではなく、むしろ恐れを知らず、危険が実際にあることを教え込むことは困難なのである。ところが、その危険が権力的なマイノリティによって無力なマジョリティに負わされているとされる場合になると、「危険とは無縁だ」という主観的な感覚は起こらない。この違いが起きるのは、他者に負わされたリスクに対する態度が政治的であるからだ。……リスク認知が問題なのではなく、欺瞞や搾取に対する憤慨が問題なのである。そうであるならば、私たちはなぜ非難の態度をとるのかを理解する必要がある。(Douglas 1985: 33-4)

リスクの認識と受容は、危険の原因が誰にあると誰によって認識されているのかという問題と切り離すことができない。かくして、ダグラスは人類学者として、村に不幸が起きた際にウィッチクラフトにその原因を帰す未開人とのアナロジーを見い出すのである。

ダグラスによれば、ある文化のなかでは、決まった非難のパタンが見られるという。このパタンが、災難への恐れを通じて、集団に対する個人の意識を枠付けるメカニズムとして機能する。ここで、三つの非難のパタンが区分される。犠牲者への非難(未婚の母、病人など)、近親者への非難(障害児の親、不良少年の母親など)、外部の敵や力への非難(先祖、自然など)の三つである。

問題はどのような危険が最も不安を呼ぶのかではなく、不運に対してどのような説明が、さまざまな種類の社会において最も効果的に機能するのかにある……さかんに喧伝されたリスクは一般に道徳原理を正統化することにつながることがわかっている。(ibid.: 60)

そして、現代日本では、それが不当であるケースでも、医療の世界では医療者がウィッチクラフトとなり、教育の世界では教師がウィッチクラフトとなっている。なぜなのだろうか。

リスク認知を歪ませる文化の3類型


Risk and Culture
Douglas and Wildavsky (1982) Risk and Culture
ダグラスは、リスク認知を歪ませる種々の文化的バイアスを明らかにするために、かなり理念化した類型論を展開している。ダグラスによれば、以下にみる類型のうち、平等主義的なエンクレイブが、現代社会の歪んだリスク認知をもたらす最たるものである。ひとつずつ、具体的に見てみよう。

第一は、閉鎖的、ヒエラルキー的、伝統志向の社会であり、ここでは個人の欲求が共通善よりも下位にあることが教え込まれる。「道徳に厳しく人びとを手なずけるコスモロジー」(Douglas 1985: 62)のなかで、罪の重みに耐え切れなくならないように、贖いの儀礼が用意されている。そして、「ヒエラルキーはその厳格な手続きにいたずらにこだわる。その結果、あまりに物事に遅速であり、新たなテクノロジーに対してあまりに盲目的になってしまう。新たな危険の存在を信じることができない。大きなリスクがその制度閾を超えた地平に現れてはじめて認識されることになる」(Douglas and Wildavsky 1982: 101)。

第二は、個人の競争を重視する社会である。「個人主義は交換システムを第一の価値としてかたく信じている。このシステムを脅かす個人はいかなるものであれ罰せられる」(ibid.: 101)。さらに、個人主義は自らの競争の犠牲者に注意を払うことはほとんどない。したがって「この社会に危険なテクノロジーを委ねることはできない」(ibid.: 101)。

さらに、ダグラスは第三の文化形態として平等主義的エンクレイブ(ボランタリー・アソシエーション)を提示し、官僚制(ヒエラルキー)や市場(個人競争)とは異なる独特なものとして位置づける。

言葉の上でのコミュニティとは、個々人の生活の支えとなり、コミットメントを境界付ける集団のことである。ボランタリー・アソシエーションはコミュニティ形成の萌芽的、不完全、未完成の試みである。すなわち、ボランタリー・アソシエーションとは、その成員が、たいていの場合、年月を経て特に何かを成し遂げたというよりは、団結しているという点に誇りを持つことができるアソシエーションである。(Douglas 1985: 95)

この第三の文化型をダグラスはとくに問題視する。トクヴィルと異なり、ダグラスは、平等が権力の空白を埋めるためにもたらされたイデオロギーとみなす。「平等とは動揺した群衆の中であらゆるものがごたまぜにされることであり、評価、名誉、社会的地位なしに、人びとの目は小さな賞を求め、小さな不平等に憤る」(ibid.: 96)(こうした非難を読むと「何だこの偏った見方は」と冷笑したくなるが、ひとまず目をつむろう)。

ダグラスの分析は、以上の社会類型における公共財の配分の問題の考察に向かう。そこでは、オルソンの「共有地の悲劇」論が修正される。ダグラスによれば、公共財は特定の組織文化においてのみ生産することができるという。すなわち、ダグラスが市場やヒエラルキーと呼ぶレジームにおいて可能になるものである。なぜなら個々の成員はその公共財から利益を得ることができると期待できるからだ。

しかし、ボランタリー・アソシエーション(エンクレイブ)の場合、「フリー・ライダー問題」に対処しなければならない。平等主義レジームの場合、代価を支払わない者が集合的に生産された公共財から利益を得ることを妨げられないからだ。そこで、ボランタリー集団のメンバーは、供給を制限するために、インサイダーとアウトサイダーに厳格な境界を引くことになる。このために、ボランタリー集団は「非難の戦略」の背景に特定の「コスモロジカルな筋立て」を得る必要がある。つまり、外部の現実性の低いリスクを過度に強調することで、その厳密な境界を維持することになる。境界によって組織の凝集性を保つために必要となるのは、外的な脅威によって引き起こされる不可逆的な変化に対する恐怖なのである。

こうしたエンクレイブは集権的というよりは周縁的な組織形態(セクト)である。「セクトには中心を支えるのに十分な責任も安定性もない」(Douglas and Wildavsky 1982: 120)。セクト主義的政策は、中心/中央に対する非難と結びつく。あらゆる権力者と社会的階層の上位者が引きずり下ろされる。

〔メアリ・ダグラスが〕主張しているのは、環境・生態系破壊をめぐる今日の熱い議論が、現代のアメリカにおける教会-セクト間のコンフリクトの基本形態を織りなしていることである。近代世界において、科学は説明と恐怖の源泉として神に取って代わった。科学技術は悪魔であると疑いもなく認められ、自然は清浄そのものの象徴となって、汚染から守られる。ちょうど、神がセクト主義者によって腐敗と俗物から守られてきたように。(Robbins 1983: 188)

以上の議論からリスクの類型が示される。ある社会集団の文化的性格はその集団の選択するリスクと類似性を持つ。リスク領域は以下の三つに区分される。

1.社会政治リスク:内部の逸脱(とくに人間の暴力)によって、あるいは犯罪、外部の軍事的敵対者によって引き起こされる社会構造の危険。←ヒエラルキー制度的文化
2.経済リスク:経済危機。経済的失敗のリスク。←市場個人主義文化
3.自然リスク:自然、身体の生態学的危機。テクノロジーによるリスク。←セクト的「辺境」文化

以上のうち、最初の二つのカテゴリーが「中心」を構成する。これに対して辺境文化は危険な「周縁」を構成する。ダグラスの議論では、この第三の文化は構造の脱組織化を導くものであるとされる。

しかしながら、今日では、第一、第二のリスク文化の成長も見られ、実際のリスク(不確実性)も増加している。グローバル市場化、国民国家の危機、個人化プロセスの進展のなかで、社会構造の危機と経済リスクが増大しているのである。

したがって、現代社会のリスクは、ダグラスらの言うように中心に対立する「エンクレイブ」や「辺境」の出現によって説明される「認知の歪み」には限られない。現代の社会秩序の脱組織化をもたらすエンクレイブのみを非難すれば良いとは言いがたい状況にあることを認める必要もある。

「リスク」を確率として認識できない


ある文明における一連の宗教観念が論理的に一貫しているようにみえるのは、矛盾の無い論理的規則を単純に適用しているためではない。宗教観念が論理的に一貫しているようにみえるのは、第一に、一貫した制度形態によっているためであり、第二に、一連のアナロジーがそれによって構成されているからである。こうしたアナロジーは、言葉を広げ、一つの文脈から別の文脈へと論理的な操作をすることで一貫性を創りだしているのである。そして、アナロジーが重なり合い、繰り返されて、混乱が起こりそうな経験に対して複雑な秩序化を課しているのである。(Douglas 1985: 426-7)

Risk Acceptability
Douglas (1985) Risk Acceptability
リスクは、罪やタブーと同様に、一つの文化的基調(カルチュラル・モチーフ)であり、多義的な意味が、複雑な社会のさまざまな制度的状況のなかで繰り返され、その状況のなかで起こる出来事の責任を配置する手段をもたらす。リスク観念が十分に打ち立てられているところでは、その観念が「わだち」(groove)として働き、社会的議論はそのわだちを流れ、そして、わだちを深くしていく。

しかし、リスクの文化基調はその意味を変えている。そもそも「リスクの語は得失の確率を示すニュートラルな語である」(Douglas 1990: 23)が、19世紀のリスク観念は利益と結びつき(人の嫌がるリスクを引き受けることで、企業家が利益を上げることが正統化された)、そして今日では、一般にコストと結び付けられている(つまり、リスクは被害に対する補償の支払いを正統化するものである)。

リスク概念は政治の前面に立っていてもおかしくなかったのである。なぜなら、確率論的思考は、〔17世紀以降、〕産業、現代科学、哲学に浸透しているからだ。・・・・・しかしながら、政策立案の中心概念であるリスクは、確率計算に関するインプリケーションは多くない。・・・・・・今ではリスクは危険を意味する。高いリスクとは、危険が大きいことを意味する。(Douglas 1985: 23-4)

現代医療の世界におけるリスク概念は純粋に確率計算によるものであるが、一般の人びとのあいだでは必ずしもそうではない。たとえば、0.5%の確率的事象が自分に降り注いだとき、「なぜほかならぬ自分なのか」についての説明が必要なのである。ここに大きな溝がある。

「上からの」リスクについて、ヒエラルキー文化のなかであれば全体の利益を考え納得でき(ただし、前回見たようにそこにはアンビバレントな心理が伏在する)、個人主義の文化であれば自己責任として納得することができる。しかし、平等主義的エンクレイブの文化に強く染まっている場合、文化基調(わだち)に基づき、平等性を否定する他者である科学や大企業、官僚組織に責任を押しつけることになるのである。

このように、(危険とほぼ同義で使われる)リスクはウィッチクラフトと同様の責任押し付けの装置としても機能しているのである。リスクは明らかに世俗的であり宗教的ではないけれども、アナロジカルに見れば、宗教的な観念がかつて果たしていた機能(キリスト教の文化基調としての罪、ポリネシア文化のタブー)と同じ機能を果たしているのである。

多元的なリスク文化を認め、再帰性を確保する


Risk, Environment & Modernity
Douglas and Ney (1998) Missing Persons
以上のような視点は、実践的にはどのような意味を持ちうるのであろうか。カール・デークによるリスク認識の分析をみてみよう(Dake 1991)。この分析では、サンフランシスコのベイエリアの市民に対してテクノロジーへの態度を聞いたものである。この調査の仮説は、リスクへの態度はパーソナリティに拠ったものであるというものである。つまり、

〔平等主義者は〕非平等的な社会は貧民を搾取するのと同じように傷つきやすい環境を痛めつけていると信じているだろう。ヒエラルキー主義者、個人主義者はちょうどこれとは反対である。すなわち、両者はテクノロジーに対して楽観的なのである。ヒエラルキー主義者はテクノロジーによる危機が専門家によって管理されうると考えており、個人主義者はテクノロジーを際限ない個人の冒険心の乗り物として捉えているからである。したがって、ヒエラルキー主義者と個人主義者は平等主義者よりも環境やテクノロジーの危機に関して不安は小さいと考えられる。(Dake 1991: 66)

調査の結果、平等主義者は36の「全体社会への関心」(societal concerns)の項目と正の相関が見られたが、「権威への尊重の喪失」はその例外であった。これは、平等主義者は他の文化よりも社会に対して批判的で、社会制度を維持することには関心がなく、リスクを嫌っていることを示すものである。ヒエラルキー主義者と個人主義者の技術上、環境上の危険に対する不安は平等主義者よりも小さい(「核戦争への恐れ」は相関関係が一番弱く、「テクノロジーと結びついた危険」、「環境汚染」については負の相関が見られた)。反対に、ヒエラルキー主義者と個人主義者は「デモや抗議」、「市民的不服従」、権威の欠如に対して不安を感じ、「市民的自由の欠如」に関する不安は小さい 。

「リスクの問題は文化的バイアスのリトマス試験である」(Douglas and Ney 1998:140)。ヒエラルキー的な傾向が強くなり、命令体系が強くなると、明白な危険までもが認知されなくなる(JCOの臨界事故ではウランを含む溶液をステンレスバケツで扱っていたことが問題となった)。

エンクレイブ文化のバイアスが強まると、リスクに関する議論は激しく果てしないものになる。人びとは臆病なように見え(実際は臆病なのではないが)、小さなリスクを過大評価する。リスク論争は政治論争なのである。

もちろん、良心の声が声高にそして明確になることは良い事であり、損害を招いたものが説明責任を有することは正しいに決まっている。相争いあう政治集団の間にバランスがとられること、そして妥協と和解のために話すこともまた正しい(ibid. 1998: 141)。しかし、リスクに対する文化論的理解は、現在の言説状況に対する大きな問題を投げかけるものである。ダグラスは悲観的な結論を見出すほかないのである。

私たちの文化は、文化的コンフリクトのリスクを最小限にするように、そしてこのコンフリクトを表に出すことを避けるように動いており、文化が本質的に対抗的であることが分からないように管理している。この無知の中で、私たちは意図せざる争いを引き起こそうとしているのである。すなわち、意図せざる侮蔑を行い、暴力を喚起し、報復の要求に耳を傾け、深刻な内乱への道を進む恐れの中にいるのである。(ibid.: 141)

問題は一つの文化的バイアスに偏ることなのであり、ダグラスが問題にしているのは、平等主義的な「エンクレイブ」にとくにその傾向が強いことであり、そして、現代社会が平等主義的エンクレイブの文化基調を刻み込んでいることである。

ダグラスらはベックのような理論家を広い意味でのセクト主義の役割を与えるだろう。ダグラスらはこれら三つのリスク文化はリスクの実在論的観念をもつという。その中でももっとも実在論的であるのが辺境からのセクト主義者なのである。ダグラスらにとって、ベックのようなコメンテーターは辺境からその立場を確保し、それをリアリズムに作り変えている存在なのである。(Lash 2000: 52)

結局のところ、ダグラスがセクトないし平等主義的エンクレイブを批判するのは、ヒエラルキー的な計算合理性が完全に正しいからではない。エンクレイブが自身の文化的バイアスや文化の多元性を否定し、再帰性を否定していることに由来しているのである。リスク・ガバナンスには、科学的リテラシーはもちろんのこと、多元的な文化的バイアスを調整する再帰性を担保することが必要なのだ。

今回の書籍


汚穢と禁忌 (ちくま学芸文庫)
定価:¥ 1,575
売上ランク:125546位
レビュー平均:5.05.0点 (1 人がレビュー投稿)
5.05.0点 メアリー・ダグラス『Purity and Danger』の
出版日:2009-03-10
出版社:筑摩書房
ページ数:438
by 通販最速検索 at 2013/03/24

参照文献

  • Dake, Karl, 1991, ‘Orienting Disposition in the Perception of Risk: An Analysis of Contemporary World Views and Cultural Biases’, Journal of Cross-Cultural Psychology 22(1): 60-81.
  • Douglas, Mary and Aaron Wildavsky, 1982, Risk and Culture: An Essay on the Selection of Technical and Environmental Danger, Berkeley/London: University of California Press.
  • Douglas, Mary, 1985, Risk Acceptability According to the Social Sciences, New York: Russell Sage Foundation.
  • ―, 1990, 'Risk as a forensic resource', Daedalus, special issue on 'Risk', Fall, ll9(4): 1-16. [=Risk and Blame, 'Risk and justice']
  • ―, 1992, Risk and Blame: Essays in Cultural Theory, London/New York: Routledge.
  • ― and Steven Ney, 1998, Missing Persons, a Critique of Personhood in the Social Sciences, Berkeley: University of California Press.
  • Lash, Scott, 2000, ‘Risk culture’, in Barbara Adam, Ulrich Beck and Joost Van Loon (eds), The Risk Society and Beyond. Critical Issues for Social Theory, London: Sage.
  • Robbins, T., 1983, review of Risk and Culture, Journal for the Scientific Study of Religion 22: 188-9.
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ローカル・ノレッジはなぜ重要なのか―原発事故とリスク社会論の盲点
―2013年03月23日

原発事故以後、ローカル・ノレッジ(民衆の知、市民の知)に対する日本社会のネガティブな評価が逆に高まっているのではないか。「(ときに「放射」とも形容される)素人は余計な口を挟まず、専門家集団が自律性を高めればよい」、「たいして専門的経験のない一般市民の意見を等しく取り上げれば社会は崩壊してしまう」、「市民は、数ある専門知(行政知)のなかから、自らのローカルな状況に適ったものを選択していけばよい」といった具合に。しかし、そうした態度をとり続ける限り、「原子力村」に象徴される日本社会の構造的問題は解決しないだろう

この記事では、ローカル・ノレッジに対するネガティブなまなざしは、(自覚的であれ無自覚的であれ)いずれも自然/社会(文化)、専門知/民衆知という誤った近代的二分法に由来するものであり、ローカル・ノレッジの擁護は、決してロマン主義的な理想論や反権力的なイデオロギーによるものではないことを明らかにする。

この種の誤りは、実のところ、社会学における正統派リスク社会論も引きずっているものであり、上記の二分法を超えるリスク・ガバナンスの実現ににこそ、一般市民のパニック状況からの脱却とともに、正統性を有する新たな政治秩序形成の可能性があるのだ。

正統派リスク社会論に対する文化論的批判


Risk, Environment & Modernity
Lash, Szerszynski and Wynne eds. (1996) Risk, Environment & Modernity
リスク社会論といえば、まずは、ウルリヒ・ベックとアンソニー・ギデンズの名が挙げられるだろう。しかし、彼らが問題にしているのは、あくまで「実在」のリスクが高まっていることであり、その焦点は専門知にある。そして、後述するように、後期近代に入り複数の科学知の競合状況が生まれていることを問題にする一方で、科学知の「実在論(リアリズム)的」概念化を批判することはない。

その結果、再帰的近代化をうたっておきながら、一般市民の有する再帰的プロセスに「十分な」光を当てずに済ませている。一般市民レベルにおけるギデンズの再帰性概念は、親密圏、対人関係のものに限られている。そして、スコット・ラッシュやブライアン・ウィンらが論じているように、非専門的な公共領域における集合的な民衆知(公共知)の有する再帰性の意義が見過ごされている(そして、日本では、一部の社会学者を除き、ラッシュやウィンらに通じる議論はほとんどなされていない)。市民社会における再帰性とはなにか?

多くの社会学の議論では、「前期近代における専門家システムへの自動的信頼」という命題が自明視されてきた。つまり、前期近代人は盲目的に「偉い人の言うことに間違いはない」と考えてきたというのだ。たとえば、ギデンズは、後期近代における再帰性の由来を、専門家の権威そのものに対する一般市民の疑義にではなく、グローバル化と脱埋め込みに対する私的な対応(すなわち「選択機会の増大」)に求めている。前期近代における自動的信頼から(simple modernity)、複数の専門知に対する一般市民の積極的な選択的信頼へ(reflexive modernity)という、おなじみの図式が描かれるわけである。

しかし、専門家システムに対する自動的信頼が社会全体を覆っていたことなどない(Wynne 1987, 1990, 1994)。常に一般市民の間には心理的アンビバレンスのなかでの再帰的依存があったのだが(「すべてお任せするほかない」状況下で、その内面は常に揺れ動いている)、ギデンズはそれを非再帰的な信頼と混同しているのだ(Wynne 1987)。つまり、ギデンズは、初期近代における専門知の非競合的状態を一般市民からの信頼と同一視し、後期近代における再帰的過程を、新たな生活不安(専門知のゆらぎ)に曝された一般市民による選択の結果だとしたのである(Wynne 1992)。

ギデンズらの議論に対する反証は数多くある(Welsh 1993, 1995)。たとえば、英国における反原発の声は1970年代に環境保護運動の高まりとともに生まれたという一般的認識があるが、実際には1970年代以前から全国的、国際的な政治的反対があり、決して原子力に対する一般市民の自動的な信頼はなかった(そうした疑義の声は「無知蒙昧」として制度科学から排除されていただけである)。

したがって、ここで視点の転換が起きる。第一に、市民の不信は、専門家レベルの反論、議論の後に続いて生まれるのではない。逆に専門家レベルの反論こそが、一般市民の間の懐疑の存在を背景に促され、成立し、影響力を獲得しているのである。我々は、水俣病のケースなどを考えてみればよいだろう。

第二に、市民の表立った不信・反対が存在しないからといって、市民からの信頼が存立しているわけではない。専門知の制度からの市民の排除や専門家制度に対する市民のアンビバレントな態度は、必ずしも行動にあらわれるものではない。非制度的な形式の経験・知識が制度的専門知から抹殺されてきた例は枚挙にいとまない。

というのも、制度的専門知の内部では往々にして既存の社会/自然秩序が維持されるメカニズムが働くからだ。とりわけ複雑性の高い状況下では、新たな知見を織り込もうとすればするほど不確実性が高まってしまう。したがって、制度的専門知は、既存のリスク評価を固定化してしまう(原発推進のように!)。複雑性すら還元主義の対象となり、単純なものからスタートし徐々に複雑なものに対応するという決定論的メカニズムが働く。「始めてみなければ何事も進まない」

しかし、制度的専門知の設定する基準には往々にして科学外の文化的要素が入り込んでいる(原発推進の他にも、遺伝子組み換え食品における商業文化の影響について、Wynne 2005a)。制度科学は常にアド・ホックな決定論によっており、そして、不確実性は「科学」の名によって排除されてきたのだ。科学者や官僚は、「偶有性があることを示すと、確実性を求める一般市民は、新たな試みのすべてを頭から否定してしまう」というのだが。

専門家システムへの依存は積極的信頼ないし自動的信頼と同一視するべきではない。あくまで「仮の」信頼でしかない。初期近代のように(単一の)専門知、制度科学に依存している場合でも、その専門知、制度科学との関係における再帰性は常に働いている。科学と一般市民の信頼との関係はギデンズの想定よりもはるかに複雑であり、その中心にはアンビバレンスがある。信頼は、依存の経験や排除の可能性、主体性の欠如を背景に形成されている。ただし、依存や主体性の欠如は合理化されるために表面化しない。「おやっ」と思っても、その思いが社会的に表面化されることはない。

以上をまとめると、再帰的過程は専門知の競合から起こるのではなく、もっと再帰的な市民のアンビバレンスが常に存在してきた。したがって、非再帰的信頼→再帰的信頼というギデンズ的図式は成り立たない。

民衆や市民の知の再帰性の存在こそが科学ひいてはガバナンスの再帰性を保証することになる。ここにリスク・ガバナンスにローカル・ノレッジを組み込むことの社会学的意義のひとつがある。

さらなる意義―リスク・ガバナンスの文化的次元


Misunderstanding Science
Irwin and Wynne eds. (1995) Misunderstanding Science
ギデンズやベックはこう論じる。後期近代の産業社会は自らの生み出すリスクをコントロールすることができなくなり、その規模はグローバルに広がるため逃れることもできない。したがって、従来のガバメントによる制度的保証は有効ではなくなり、「個人の選択」の機会が増えるにつれ、存在論的不安が高まるのだと。

しかし、こうした議論は、新古典派的な合理的選択による経済人モデルに偏重している。ベックの場合、専門家に対する今日の一般市民の信頼の喪失は、「専門家に裏切られた」という思いに由来するとされるものの、それはあくまで合理的思考のモデルが前提となっている。ギデンズが問題にしている公共領域における専門知の競合もまた、合理的選択の視点からのみ捉えられている。

しかし、ポイントは、物理的なリスクの如何をとわず、こうした合理主義的言説を通すことによって、一般の人びとに規定的な人間/社会モデルを押し付けることになることだ(Wynne 1992; Irwin and Wynne 1995)。市民によるリスク認知はむしろ、(リスクをコントロールされるとされる)専門制度が信頼に値するのかどうかについての判断に合理的に基づいている。つまり大半のリスクは社会関係的である(Wynne 1996a)。

大半のリスクは実際には知的構築物であって、不確実性は計算可能な程度まで人為的に縮減されている。しかし、こうした「自然な」フレームをつくりだす社会的前提――つまり科学は客観的に真であり、個々の人間の意見は文化的なバイアスがかかっている――はほとんど認識されていない。そして専門的な「自然な」知識はインプリシットな社会/人間モデルを体現している。

この種の不確実性を考えると、存在するとされるリスクの大きさを評価することにとどまらないことが合理的であることになる。というのもそうした評価をおこなうことは、常により大きなリスクを持ち込むことになるものであるからだ。したがって、責任があるとされる制度の(将来にわたる)信頼性、能力、独立性を問う方がより合理的である。こうした制度的次元は、物質的リスクのスケールに影響を及ぼすからだ(検査機関が厳格に検査をしなければ、リスクは高まる!)。

したがって、市民によるリスク認知には、社会制度に対する判断という要素が絡んでくる。この判断に組み込まれているのが、生活上の価値を守るために、それら制度にどの程度依存するのか、そして、その依存がどのような意味を有するのかについての評価である。こうして、先に見た依存とその合理化の複雑性という問題に立ち返ることになる。

科学的知識(リスク分析)は、社会的価値次元を無視し、不確実性を自らの客観主義モデルに従って縮減し(Wynne 2005a)、確実性/客観性を装い、その結果、人びとの生活を規定する影響力を社会に及ぼす。そうした制度科学に依存することによる非物理的リスクを無視してはならない。このリスクの起源は、物理的リスクを直接コントロールするとされる制度科学の非人間的、非社会的な構制、規定にある。つまり、これらは基本的な社会的アイデンティティを脅かすものとなるのだ。人間同士が人間的につながれなくなるのだ。計算に係わる「外部」リスクよりも感情に係わる「内部」アイデンティティ・リスクが問題になる。人びとがパニックに陥るのも、その科学的リテラシーのなさを嘲笑する前に、その背景にアイデンティティ・リスクの問題があることを考える必要があるのではないか。

現実世界に対する専門知的仮定の妥当性に対するバナキュラーな知もまた、見過ごされがちな公共知の重要なカテゴリーである。公共知と専門知の分岐の要因は、みてきたような専門知の客観主義的フレームにあると考えられることから、専門知に対する公衆の疑義や反対は純粋に合理的なものではなく、その客観性が問題にされているのであって、徹底して解釈学的/文化的なものなのである。

ギデンズらは専門家システムによる生来の生活の意味を無化する介入を問題にする一方で、ウィンらは専門知が稠密でありながらも不十分な価値を持ち込むことを問題にする(科学の知は中立ではなく、意味を貧困化させ、一般人のアクセスを遮断する)。不確実だからこそ、関係の持続が生まれる。インフォーマルな「文化の政治学」が後期近代になって広がった理由を考えなければならない。

専門知(普遍知)/民衆知(特殊知)二分法を超えるリスク・ガバナンス


虚構の近代ブルーノ・ラトゥール(2008)『虚構の近代』
新たなガバナンスの可能性は、専門知自体の「全能性」を問題にすることから生まれる。ただし、「主観的な」公共知が「客観的な」専門知に勝っていると主張したいわけではない。しかし、先に見たように、非専門世界の知が知的に意味をなさないという前提も誤りである。

専門知と公共知の間に構築された境界は実際のところ流動的で相互浸透的である。ところが、科学的専門知は、厳密な基準化に構造的にコミットしているため、専門的な公共知を軽視し否定してしまう。さらに科学的専門知は、一般市民の抵抗を無知、非合理性に基づいたものとみなす傾向がある。

こうして、そうした排除と社会的コントロールとを行う専門家へ依存していることに対する一般市民のアンビバレンスが強まる。「リスク社会」における根本的なリスクは、文化的に平板な人間モデルへの非再帰的な盲信によって働く専門家システムに対する依存によって生まれるアイデンティティ上のリスクなのである。

リスク・ガバナンスが問題にすべきは、近代的ガバメント、経済、政治、科学技術制度の正統性であり、新たなガバナンスの秩序と権威を創出することがその課題となる。すなわち、新たなガバナンスとは、公共知の形式を疎外することなく正統性を高め、不確実性のなかから安定した権威を形成していくものでなければならない。

一般市民がガバナンスのプロセスに参加することで、必然的に普遍的な知と交接することになる。ローカル・ノレッジないしローカル・アイデンティティは、近代の非人間的な普遍知のオルタナティブではない。むしろ、人間性の次元を隠すことのない普遍知を支えることのできる集合的な自己概念をガバナンスによって形成する誘因となるのだ。

ギデンズらがいかに「サブ・ポリティクス」を提唱しても、民衆知/専門知の境界はその問題構制の対象外に置かれてしまっている。しかし、ラトゥールが言うように、科学が純粋に「近代的」であったことなどない(Latour 1992)。その本質は常に「近代」(開放性、普遍性)と「伝統」(閉鎖性、特殊性)の間の社会的緊張にある。ウィンが論じているように、ベックもギデンズもその議論の中心にあるのは「普遍」の構築と権威の回復にあるが、それは近代的「普遍」の再生産にとどまっている。リスク・ガバナンスとは、徹底して民主化の可能性を問うものなのである。

※次の記事「なぜリスクは過小/過大に評価され、専門知が貶められるのか―メアリ・ダグラスのリスク文化論」に続く。

今回の書籍


Misunderstanding Science?: The Public Reconstruction of Science and Technology
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4.0点 まさに画期的な内容
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虚構の「近代」―科学人類学は警告する
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4.0点 興醒めな邦訳タイトル。だが、刺激的な知的冒険の書。
5.0点 対称的でなかった「人間とそれ以外」の分離
出版日:2008-07
出版社:新評論
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参照文献

  • Beck, Ulrich, 1986, Riskogesellschaft: Auf dem Weg in eine andere Moderne, Frankfurt: Suhrkamp Verlag.(=1998, 東廉・伊藤美登里訳『危険社会―新しい近代の道』法政大学出版局.)
  • ―, Anthony Giddens and Scott Lash, 1994, Reflective Modernization, Cambridge: Polity Press.(=1997, 松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』而立書房.)
  • Giddens, Anthony, 1990, The Consequences of Modernity, Stanford, CA: Stanford University Press.(=1993, 松尾精文・小幡正敏訳『近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結』而立書房.)
  • Irwin, A. and B. Wynne (eds.), 1995, Misunderstanding Science, Cambridge: Cambridge University Press.
  • Latour, B., 1992, We Have Never Been Modern, London: Harvester Wheatsheaf.(=2008, 川村久美子訳『虚構の「近代」――科学人類学は警告する』新評論.)
  • Welsh, I., 1993, ‘The NIMBY syndrome and its significance in the history of the nuclear debate in Britain’, British Journal for the History of Science, 26(1): 15-32.
  • ―, 1995, Nuclear Power: Generating Dissent, London: Routledge.
  • Wynne, B., 1987, Risk Management and Hazardous Wastes: Implementation and the Dialectics of Credibility, Berlin: Springer.
  • ―, 1990, ‘Major hazards communication: Defending the challenges for research and practice, in H. B. F. Gow and H. Otway (eds.), Communicating with the Public about Major Accident Hazards, London: Elsevier, pp.599-612.
  • ―, 1992, ‘Misunderstood Misunderstandings: Social Identities and Public Uptake of Science’, Public Understanding of Science 1: 281–304.
  • ―, 1995, ‘Public Understanding of Science’, in S. Jasanoff, T. Pinch, G. Markle and T. Petersen (eds) Handbook of Science and Technology Studies. London and Beverly Hills: Sage.
  • ―, 1996a, ‘May the sheep safely graze?’ in S. Lash, B. Szerszynski and B. Wynne, Risk, Environment and Modernity, Loodon: Sage..
  • ―, 1996b, ‘The identity paradoxes of SSK: Reflexivity, engagement and politics’, Social Studies of Science, 26.
  • ―, 2001, ‘Creating Public Alienation: Expert Cultures of Risk and Ethics on GMOs’, Science as Culture 10: 445–81.
  • ―, 2002, ‘Risk and Environment as Legitimatory Discourses of Technology’, Current Sociology 50(3): 459–77.
  • ―, 2005, ‘Reflexing Complexity: Post-genomic Knowledge and Reductionist Returns in Public Science’, Theory, Culture & Society, 22(5): 67-94.
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一工夫したポストイット(付箋)とノック式蛍光マーカーで読む読書術
―2013年01月26日

本を読んでもすぐにその内容を忘れてしまう。本棚に並ぶ本を見て、その内容を思い出すことができるのは、最近読んだ自分の専門分野のものぐらいである。記憶力が欠けている。どうしたらよいか。試行錯誤の末、辿り着いた私なりの読書術を紹介したい。

三色ボールペンは良いけれど


かつて、齋藤孝の「三色ボールペン」が流行ったことがあった。三色に分けて能動的に読むという発想はとても良いと思ったものの、私の場合、ボールペンではきれいに線を引くことができず汚くみえてしまうことと、結局のところ、後で読み返す際には1ページ1ページめくらなければならないことから、敬遠せざるをえなかった。

そんな私はボールペンの代わりに蛍光マーカー(ノック式)を使うことにした(蛍光マーカーであれば多少歪んでも気にならないし、美観も損なわれない)。ただし、何色もの蛍光マーカーを使い分けるのは手間であるし、いちいち持ち替えていたら、読書が進まない。

ばらばらになる付箋への対応


post_it00.jpg
そこで、本文は黄色の蛍光ペンのみでマークすることにして、付箋(ポストイット)を貼りつけるかたちで色分けをすることにした。付箋を本の上段に貼っておけば、後に読み返すときに、1ページ1ページめくらなくとも、重要な場所がすぐわかる。ただ、かつては右のような付箋しかなかった。

これでは、何色もの付箋を持ち歩かなければならないし、カバンの中に入れて持ち運ぼうものなら、すぐにばらばらになってしまう。そして、折れ曲がったり、裏の糊にほこりが付いたりすれば、もはや使う気にはならなくなる。また、紙の付箋の場合、本に貼り付けても、ページをめくる際にはがれてしまうこともあり、よろしくない。

そこで登場したのが、スリーエムの「ポスト・イット ジョーブ透明見出し」である。

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このポストイットは、貼ってはがせる丈夫なフィルム素材の付箋であり、下半分が透明になっているため本文を隠すこともなく、見栄えも悪くない。プラスチックの薄いケースに収納されており、1枚ずつ取り出せるため、ばらばらになることもない。繰り返し貼ったり、はがしたりもできる。

本の裏表紙にケースごと貼り付けてしまう!


しかし、これでも完璧ではない。付箋を貼ろうと思えば、わざわざケースに手を伸ばさなければならず、電車の中などでは、本を閉じて両手で付箋を引っ張り出さなければならず、読書の気分が削がれてしまう。また、カバンに入れておくと、1枚目が折れ曲がってしまうことがある。

ポストイットと本
そこで、私が思いついたのが、右のように本の裏表紙の袖にケースごと貼り付けてしまうことである。

このように貼り付けてしまえば、なくすこともなければ、折れ曲がってしまうこともない。そして、何よりも、どこであろうとも、読書の流れを断つことなく、蛍光マーカーでマークしながら、片手でポストイットをすいすいと貼っていくことができるのだ。

実際にケースを貼り付ける際のポイントは、次のような掲示用テープのように、片面がしっかり貼れる粘着剤、もう片面が貼ってはがせる粘着剤の両面テープを用いることである(若干値は張るが)。

ポスト・イット(R) 掲示用テープ 強弱両面テープ 24mm×10m ホワイト 1巻 561W
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ポストイット・ケースと両面テープ
貼り方は簡単で、右のようにポストイットのケースの裏側に両面テープの「しっかり貼れる側」を貼り付けて、もう片面の「貼ってはがせる側」を本に貼り付けるだけである。こうすれば、読み終えた後、本を傷めることなく、別の本にケースをそのまま貼り付け直すことができる。

なお、本に貼り付ける際には、本の端からやや離して貼ることが大切である。本の後半ページの小口がポストイットにひっかかってしまうことがあるからだ(……うまく説明できない)。

どう色分けするか


最後に、6色ある付箋をどのように色分けするかである。私の場合、試行錯誤の末、次のようなルールで使っている。

赤: 最重要な箇所(問題設定、仮設、結論、主要論点に関する記述)
オレンジ: 次に重要な箇所(主要論点を補強する記述)
黄: その次に重要な箇所
紫: 主旨からは外れるが、主観的に重要な箇所
青: よく理解できない箇所、間違っていると思われる箇所
緑: 表現の仕方が参考になる箇所

いずれにせよ、「三色ボールペン」のように、少なくとも、客観的に重要な箇所と主観的に重要な箇所が分かれるかたちでルール化するとよいと思う。

そして、読了した後、それぞれの付箋の色が正しかったのかどうかを確認する。間違っていたとしても付箋を貼り替えれば(あるいは、はがしてしまえば)済むので簡単だ。記憶の定着のためには二度読みが不可欠であるが、このように付箋をたどっていくだけで二度読みができてしまう

しばらく時間が経った後、読み返す必要が生まれた場合は、基本的には赤の付箋の箇所を確認するだけで済む。赤だけでは不十分な場合は、オレンジ、黄色の箇所を参照すればよい。

読書に限らず、人間の能力に大きな違いはないはずだ(べらぼうに頭がよい人たちは別であるが)。自分を卑下する前に、自分なりに正しい「方法論」を身につけることが何よりも大切だと思う。
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グローバル資本主義との付き合い方(1)―ナショナルな政治過程との連環
―2012年11月03日

towardsaninclusivedemocracy.jpg
2009年の政権交代が失敗に終わったとされるなか、鎖国主義に根ざしたナショナリズムに対する支持とともに、ポピュリズムを背景とした新自由主義(グローバリズム)が再び台頭し、両者の二項対立図式が語られるようになっている。しかし、両者は見せかけの対立に過ぎない。

かつて、スウェーデンの社会学者ヨラン・テルボーンは、「グローバル化の歴史とともに今日のナショナルな諸過程こそが、今日のグローバルな不平等を生み出している最有力の生産者である」と喝破した。テルボーンは、国際貿易と国内経済格差の間に相関関係が認められないことを実証し、不平等を生み出すナショナルな政治過程に目を向ける(Therborn, 2001,“Globalization and inequality,” Soziale Welt, 52)。

また、オルダーソンとニールセンも、1970年代以降のOECD諸国におけるグローバル化のインパクトを分析するなかで、グローバル化は確かに産業の空洞化を加速化させ、労働者の交渉力を弱め、非熟練労働者の賃金を削減させ、労働市場の競争を激化させていると主張する一方で、これらの不平等の拡大がグローバル化とは直接結びつかないものである可能性を示している。つまり、海外直接投資(FDI)や途上国からの輸入よりも、国内における農業力人口の転換、労働市場の規制緩和、社会福祉の水準の切り下げの方が強いファクターになっているというのである(Alderson and Nielsen, 2002,“Globalization and the Great U-Turn,” American Journal of Sociology, 107(5):1244-99)。

日本国内でも労働者の賃金低下がグローバル化の必然的な帰結であるかのように喧伝されているが、実際のところ、賃金が下がっているのは、国際的な価格競争に巻き込まれている製造業よりむしろ、サービス産業であることが明らかにされている(児玉・乾・権, 2012,「サービス産業における賃金低下の要因―誰の賃金が下がったのか」RIETI Discussion Paper Series)。グローバルな経済格差の進展は、今に始まったことではなく、南北問題であると同時に、途上国内・先進国内の問題でもあり続けているのだ(Fotopoulos, 1998, Towards an Inclusive Democracy, Cassell)。

planetofslums.jpg
とはいえ、ロサンゼルスの都市社会学者マイク・デイヴィスが『スラムの惑星』(原著2006年、邦訳2010年)のなかで指摘したように、ナショナルな政治経済過程がグローバルな経済過程と密接な関係にあることも事実である。グローバル化の進展が、金融最優先の経済構造をナショナルな次元でも生み出し、世界の不平等と不安定さを高めていることには十分な証左がある。ごくわずかの資産家と金融資本にとってのみ、今は「黄金の時代」なのである(なお、マイク・デイヴィス自身について、原著刊行時に書いた拙稿「都市社会学の貧困または奢侈―マイク・デイヴィス著、Planet of Slumsを前にして」『社会学研究』80号を参照されたい)。

けれども、後に詳しく見るようにグローバル化の光の側面を見れば、グローバル化そのものを全面的に否定する鎖国思想に組みすることはできない。冒頭に見たテルボーンもまた、短期的な資本移動の自由化が途上国に対する最も甚大な不平等をもたらしていることを明らかにしつつ、たとえば医薬品のグローバルなフローが「世界の平等化の最も重要なプロセス」になっているとも指摘している。

したがって、むしろグローバルな要因とナショナルな要因双方に対する民主的な規制(レギュラシオン)の可能性を追求していくことが求められよう。しかし、それは既存の空間秩序のなかでも可能なのだろうか。

デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義―その歴史的展開と現在
ここで参照すべきなのが批判的地理学の第一人者であるデヴィッド・ハーヴェイである。ハーヴェイが『新自由主義』(原著2005年、邦訳2007年)などの著作のなかで明らかにしているように、今日の経済グローバル化(貿易・金融の自由化、グローバル企業の成長、金融・情報・専門職のフローの流動化)には、時空間の圧縮やグローバルな連関といった空間編制と密接なつながりがみられる。そして、そこから生まれる、トポロジー的、ヘテラーキー的に構造化された新たな経済空間は、従来の国家による領土ベースの規制が働いた世界システムとはまったく異なるものとなっている。したがって、今日の資本主義の問題は、トランスナショナルな資本家階級、ワシントン・コンセンサスの陰謀とか、マルチ・レベル・ガバナンスなどといった次元を超えているようにもみえる。

ここで、都市社会学が注目するのがヘテラーキー型のミクロなレギュラシオンの可能性であるが、ただし、既存の言説とは異なり、私は、そのレギュラシオンをナショナルな政治過程に基づくマクロな規制と両立させる道筋を見出していきたい(というより国家をアクタンとみなすアクターネットワーク論の視点からすれば、ミクロ/マクロの図式は人為的なものに過ぎない)。

まずは、従来の規制/レギュラシオン論をみることから始めよう。(次に続く)

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婚活時代における未婚・独身男性の余剰率(都道府県別)
―2012年09月22日

今日の「婚活」の厳しさの一つとして、30代、40代の未婚・独身男性の数が女性よりも遙かに多いことが挙げられる。前回は山形県の婚活男性が婚活女性よりもはるかに多いことに着目してこのことをみたが、今回は都道府県による違いに目を向けたい*1

未婚・独身男性余剰率は東高西低


まず、平成22年国勢調査の結果を用いて、30代~40代前半の「未婚者」と「独身者」(未婚者+離婚者)について、それぞれ男性がどの程度多いのか(=男性余剰率)を算出したのが下図である(図はクリックすると拡大します)。
未婚・独身男性余剰率(30代~40代前半)
未婚者の男性余剰率は、栃木県(47.9%)、茨城県(47.9%)、愛知県(45.5%)の順に高い。この数値は、未婚女性10人に対して、未婚男性が14~15人いることを意味している。逆に低いのは、福岡県(16.6%)、鹿児島県(17.2%)、長崎県(19.7%)であり、東高西低の傾向が見られる。

未婚者に離婚者を加えた独身者でみると、どの都道府県も未婚よりも余剰率は低くなる。離婚した男性が未婚女性と再婚するケースが、その逆のケースよりも多く、離婚女性が離婚男性よりも多いからであろう。

なぜ、これだけの男女差が生まれるのか


そもそも男女の出生数の差は5%程度であるのに、どうして、数10%もの男女差が生まれるのだろうか。その原理を図示すると次のようになる。
婚活の男女格差の原因
そもそもは、男性105人対女性100人で5人(=5%)の差であったものが、男女それぞれ75人が結婚したとすると、未婚者の数は男性30人、女性25人となり、男女差は5人のままであるが、比率は20%に拡大するのである。こうして、独身女性1人に対する独身男性の数は、年を重ね、周囲の婚姻率が挙がるにつれて増えていくことになる。

したがって、都道府県間の男性余剰率の差も、社会的移動の男女差とともに、婚期の違い、さらには離婚率の違いによってある程度説明できると考えられる。社会的移動については、製造業の盛んな県(愛知、静岡、北関東)は独身男性が集中しやすく、余剰率が高い傾向が認められる。

年代ごとにみる未婚・独身男性余剰率


最後に、年代ごとの未婚男性余剰率と独身男性余剰率を都道府県別に計算した。はじめに、20代後半を下図に示す。
未婚・独身男性余剰率(20代後半)
平均初婚年齢が30歳近くになった今日、未婚・独身ともに20代の男女差はまだまだ大きくないが、すでに東高西低の傾向が認められ、九州では女性の独身者の方が多い県も見られる。

以下、30代前半、30代後半、40代前半の順に見る。東高西低の傾向が次第にはっきりとしてくるのがわかるだろう。
未婚・独身男性余剰率(30代前半)
未婚・独身男性余剰率(30代後半)
未婚・独身男性余剰率(40代前半)
もちろん、これらの年代のすべての男性と女性が等しく結婚を希望しているわけではないだろうが、都道府県ごとに婚活の状況に大きな違いがあることが分かる。

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山形県の婚活(その厳しさの背景、未婚男性余剰率47.4%!?)
―2012年09月17日

今朝の山形新聞を読んで驚いた。「県の「お見合いサービス」登録者数、過去最多の伸び 8月43人増」の記事である。以下、一部引用する。

山形婚活登録者数

少子化対策の一環として県が推進する結婚支援事業で、お見合いサービスへの登録者数が8月末現在で前月比43人増の175人と、過去最多の伸びとなったことが県のまとめで分かった。県は結婚支援の新拠点「やまがた結婚サポートセンター」の業務が本格化したほか、登録代行を担うボランティアが活動を開始した成果とみており、9月以降のさらなる登録者数アップに期待する。

8月に男性29人、女性14人が加わり、登録者は8月末現在、男性133人、女性42人。30代が79人、40代が75人と30~40代が全体の9割を占める。サービスは県の委託を受けた「やまがたお見合い支援センター」が2011年1月に開始、今年5月からは新設された結婚サポートセンターが引き継いだ。

同センターが結婚希望者の同意を得た上で職業、自己PR、相手に望む点などの情報を登録、希望に合致する相手同士のお見合いを企画する。同センターはホームページ、イベントなどを通してサービスの周知を図っており、7月下旬からはお見合いのセッティング業務を本格的にスタート。既に8組がお見合いした。

さらに登録代行、お見合いの立ち会いなどを担うボランティア「ハッピーサポーター」が7月下旬から活動を開始。県内各地に配置された9人、9団体の紹介で登録に結び付いたケースが相当数あるという。県子育て支援課は「結婚希望者へのきめ細かいフォローが可能になっている。希望者は気構えることなくサービスを利用してほしい」としている。


「やまがた結婚サポートセンター」は吉村美栄子県知事の肝いりで設立され、運営は山形法人会に委託。同センター運営委託費として県は2012年度予算に約1,500万円を計上しており、記事中の「お見合いサービス」には無料で登録できる(登録方法はセンターのウェブサイトに記載されている)。

私が気になったのは登録会員数の男女比である。8月に若干女性が増えているが、それまでの男女比は3.7:1.0で、男性約4名に対して女性1名の比である。これほどまでに女性優位だとは思わず、実際の未婚者の状況を調べてみることにした。

若年未婚率―山形県は代表的な早婚地域


まず婚期の時期をみるために、平成22年の国勢調査から男性31歳、女性29歳の未婚率(結婚したことがない者の割合)を都道府県別に算出し比較した。なぜ、31歳と29歳の値を見るかというと、年齢各歳別の未婚率の全国値を調べてみると上記の年齢で未婚率が50%を下回るに至るため、この年齢が平均的な婚期の基準値となると考えたからである。
都道府県別にみる若年未婚率
上図では中央に全国値が位置しており、縦軸(女性未婚率)、横軸(男性未婚率)それぞれに向けて基準線が引かれている。つまり、
  • 図の右上:男性、女性ともに婚期が遅い。東京都、京都府が代表的で、神奈川県、奈良県などが位置する。
  • 図の左上:男性の婚期は早く、女性の婚期は遅い。福岡県が代表的で、大阪府、兵庫県などが位置する。
  • 図の左下:男性、女性ともに婚期が早い。宮崎県や山形県が代表的で、中国・四国地方、九州・沖縄地方、中部地方の多くの県が位置している。
  • 図の右下:男性の婚期は遅く、女性の婚期は早い。茨城県や山梨県など、関東、甲信越地方の県が位置している。
山形は、男女ともに婚期が早い県であることが分かる。ちなみに、図の右上の都道府県に住んでいて「まだまだ適齢期の異性は多くいる」と思って、図の左下に位置する山形県などに移住すると、なかなか大変なことになるかもしれない(とくに独身男性の場合、東京都と山形県の女性の未婚率は約15ポイントも違う!)――

生涯未婚率――山形県は生涯未婚率の男女差が大きい


次に、男女ともに50歳の未婚率をみる。一般に50歳以上に初婚を迎えるケースはごく限られていることから、50歳時点の未婚率は「生涯未婚率」として扱われる。
都道府県別にみる生涯未婚率
上図は、この生涯未婚率(平成22年国勢調査より計算)について男女差が大きい都道府県から順に並べたものである(図をクリックすると拡大されます)。最も生涯未婚率の男女差が大きいのは岩手県で15ポイント近くの差が見られる。なお、男性の生涯未婚率だけで見れば東京都は岩手県を1ポイント上回っているが、女性の生涯未婚率が断トツで高いため、男女差は大きくない。

なぜこれだけの未婚率の差が生じるのだろうか。理由は、(1)出生数の男女差(約5%)と(2)婚期の早さの違い(婚期が早ければ、独身者の母数が減り、自然数の差の占める割合が大きくなる)が大きな要因であろうが、ほかにも、(3)社会的移動の男女差、(4)男性の再婚率の高さ、(5)女性の婚期の相対的な早さ(晩婚化の影響にラグが生じる)が挙げられるだろう。以下は、山形県における年齢別の配偶関係の構成率を見たものである。
年齢別配偶関係(率・山形県)
このように、女性は離死別率が高く、未婚率と離死別率を足した値(独身率)を見れば、50歳時点で男性が25%、女性が16%となり、生涯未婚率よりも差は縮まる。さらに、この配偶関係の絶対数を見たのが下図である。
年齢別配偶関係(数・山形県)
絶対数で見ると、男性の未婚者数の多さがよく分かる。各年代ごとに男女別の未婚者数(独身者数)を合計すると次のようになる。
山形県における独身者数の男女差
本記事の婚活登録者の90%を占める30~40歳代では、男性の独身者が1万5千人も多く、男性の31%が余剰(!?)である。さらに、離死別者を除いた未婚者に限れば男性の方が2万人も多くなってしまう(余剰率47.4%)。結婚を望む独身男性にとっては厳しいデータであるが、とにかくも結婚を望むのであれば、相手の結婚歴にはこだわっていられないだろう。

独身者の年間所得


記事中では「希望に合致する相手同士のお見合いを企画する」とあり、実際に登録シートをみてみると、年齢、身長、血液型、学歴、職業、年収、家族構成などが挙げられている。ここでは、データの把握しやすい年収について見る。

週刊ダイヤモンドの記事によれば、(高収入ではなく)「平均的な年収を希望する」女性が実際に相手に望む年収は30歳代で693.4万円、40歳代で727.2万円であるという(余談ではあるが、残念ながら、私の年収では、この希望には応えられない)。

では、山形県の独身者の年収は実際にどの程度なのだろうか。そのものズバリのデータが見当たらなかったため、平成19年就業構造基本調査から単身世帯の年間所得を確認する(残念ながら、男女別のデータではない)。
単身世帯の年間所得(年収)
少し低めに600万以上の割合をみても、30歳代では13%(約1,600人)、40歳代でも18%(約1,600人)しかおらず、まったく「平均的」ではないことがわかる(このなかに女性がまったく含まれていないと極端に仮定しても、割合は倍になるだけである。しかも、これらの年収層が必ずしも婚活をしているとは限らない)。

ちなみに、この600万という基準を小倉千加子はこう解説している。すなわち、(首都圏で)会社員として働いている自分の年収は300万円あり、結婚によって主婦になるならば、300万円の損失が生まれることになる。その分を男性には稼いでもらいたい。さらに、今の自分の年収より低い男性は尊敬できない。したがって、300万円+300万円以上=600万円以上になるというわけである。

実際の未婚女性が相手に望む年収は高くない


ただし、山形の婚活女性もまた同様の希望を持っているとするならば、冒頭で見た県のお見合いサービスの男女比を持ってしても、女性からみれば、(年収だけでみても)「希望に適う男性が全然登録されていない」ということになるのだろう。

とはいえ、上記の希望年収は、結婚相談所「ノッツェ」(入会金8万円、月会費1.35万円)を運営する(株)結婚情報センターが会員を対象に行った調査である。したがって調査対象者は条件志向が強く、必ずしも未婚女性を代表するものではないだろう。

そこで、一般的な独身女性が相手に希望する年収を調べてみよう。データはやや古いが、「少子化時代の結婚関連産業のあり方に関する調査研究」である。ここでは、同調査の20~44際の一般独身者の個票データを分析した水落正明の研究(2010)を利用する。

同調査では、まず「相手の年収を気にするか」を聞いており、「少なくとも何万円以上という具体的な金額がある」、「自分より年収が高い」、「自分より年収が低い」、「その他」、「気にしない」の選択肢が用意されている。

水落は、「自分より年収が高い」の回答者については回答者自身の年収を採用し、「気にしない」の回答者については「希望年収ゼロ」として扱うことで、次のような最低希望年収累積曲線を描き出している。
独身女性が男性に望む最低希望年収
いずれの地域も年収600万円以上が最低条件だとする女性は、0~4%程度にすぎないことがわかる。また、北海道・東北と中国・四国・九州は、他の地域も年収条件は緩やかであり、300万未満でよいとする割合は、関東49.3%に対して、北海道・東北は62.8%、中国・四国・九州は69.2%に達している。さらに、400万未満に幅を広げると、関東でも70.1%、北海道・東北は84.0%、中国・四国・九州は88.4%となり、大多数の女性の希望を満たせることになる(あくまで「最低」希望だが……)。

(なお、一定以上の年収(「最低○○万円以上」、「自分よりも高い」)を求める者の割合は、34歳までは80%前半を維持し、35歳以降、大きく減少していき、40~44歳では71.3%になる。)

以上を受けて山形県の単身男性の年収(2007年調査)に再び目を向けると、年収400万円以上の割合は、30歳代で27.6%、40歳代で40.0%、さらに、年収300万円以上でみると、30歳代で45.7%、40歳代で55.6%となり、男女の絶対数の差を除けば、経済条件によるミスマッチはほとんどないと言えるだろう。

したがって、「女性が経済面で高望みをしている」などとして結婚にシニカルになっている男性は、現実を直視していない可能性がある。現実から目を背けるのではなく、(結婚したいならば)相対的な経済条件は脇に置いて、自らのさまざまな人間的魅力や人間的度量を見つめ直し、さまざまな出会いを求めていくことが必要なのではないだろうか。しかし、こう言いつつ、最後に次の文章を引用せずにはいられない。

女子学生は、現在の自分の生活水準を保証してくれる男を探し、男子学生はユートピア的場所となる女を探す。しかし、そんな理想の相手はどこにもいない。いやしかし、理想の相手を見つけて幸福な結婚をしている人が現にいるではないか。自分はなぜそこから閉め出されるのか。なぜ夢を追ってはいけないのか。夢を実現した一部の者への復讐の時代がこれから始まると、私は密かに覚悟しているのである。(小倉 2007: 190)


今回の書籍


結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)
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5.0点 コレって、私のコト?
出版日:2007-01
出版社:朝日新聞社出版局
作者:小倉 千加子
by 通販最速検索 at 2013/06/06

結婚の壁―非婚・晩婚の構造

勁草書房
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シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史』の日本語訳について
―2012年07月21日

鉄道旅行の歴史―19世紀における空間と時間の工業化
ヴォルフガング・シヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史―19世紀における空間と時間の工業化』The Railway Journey)について、高山宏は「この「百貨店」および「流通」と題されたごく短い文章(pp.234~45)は、19世紀文化史(Kulturgeschichte)を志す者、その全文をしかと暗誦して然るべき卓絶した霊感に満ちた部分であろう」としている。同感である。

■高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
マルクスもフロイトもみんなみんなレールウェイ
http://booklog.kinokuniya.co.jp/takayama/
archives/2007/10/19.html


シヴェルブシュは、鉄道とその車室の窓がもたらした平板的な「パノラマ的景観」によって、五感を介した人と土地との有機的なつながりが失われ、産業資本主義的な「視覚的消費」が生まれて、場所が商品となりゆくさまを鮮やかに描き出しているのである。

しかし、高山宏が「シャルル・ボードレールを『チャールズ・ボードレール』とした表記に繰り返し出合うので、その程度の訳なんだと思った」と指摘しているように、邦訳書は単純な誤訳が散見されるので注意が必要だ。たとえば、本書を締めくくる最後の文(p.245)はこう訳出されている。

「世界は、二十世紀の観光旅行においては、地方や都会にある大百貨店と化しているのである」

意味不明である。原文はこうだ。

"By the twentieth century the world has become one large department store of countrysides and cities."

中学生でも分かる単純明快な文である。したがって、指摘するまでもなく、たとえば、次のように訳すべきである。

「二十世紀までに、世界は、田園と都市からなる一つの巨大百貨店と化したのだ」

これは些細な例であるが、難解な人文社会系の邦訳書を読むと、時として、自分の理解力のなさに愕然とすることがある――「どうして、頭の良い人たちは、このように意味不明な文章を理解できるのだろう」と。しかし、答えは簡単である。誰も理解していないのである。

大学院に入りジョン・アーリなどの邦訳をする機会を与えて頂くようになってから、私はこの真実に気がついた。もちろん、すべての翻訳書がひどいわけではないし、難解と思っていた書が、いつのまにか容易に理解できるようになる場合もある。

しかしながら、学生時代には、それが自分の頭の悪さのせいなのか、悪訳のせいなのかが分からない。したがって、学問上の良き師を早いうちから得ることが何よりも重要であると考える。

今回の書籍


by 通販最速検索 at 2012/12/04
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